「成り上がり」豊臣秀吉の天下統一
【本郷】信長亡き後、一旦は信長の子孫があとを継ぐことになりますが、そこでおとなしくしてる秀吉じゃない。なんたって、信長のかたきをとったのは自分だという自負があるから。後継者争いで対立する柴田勝家を「賤ケ岳の戦い」で破った秀吉は、大坂城を築城して天下人への階段を駆け上がります。
【編集S】織田信長に忠誠を誓ったけれど、信長の子孫には政権を渡さずに、自分が天下をとったのですね。やり手感すごい。
【本郷】すごいよね。そこから秀吉は、あらゆる戦で紀伊(いまの和歌山県)、和泉(いまの大阪府)、越中(いまの富山県)、四国、九州、関東、奥州(東北地方)を手中にし、めでたく全国統一を果たします。
信長の死後約8年で天下統一を実現した秀吉の手腕は認めざるを得ません。
【編集S】秀吉は、信長のぞうりを温めて出世したというイメージが強いのですが、やはり気が利いて頭の回転が速かったのでしょうか?
【本郷】そうです。秀吉は、戦が強いだけでなく政治的手腕も発揮しています。まず「太閤検地」。これは全国の田畑の面積と米の収穫量を把握することで、どれだけ年貢がとれるか、またどれだけの兵を養えるかを明確にしました。
もうひとつは「刀狩」。これは「兵農分離」といって、米をつくる人、戦で戦う人の役割をきっちり分けた。このふたつの策によって、「戦だ!」というときに、さっと兵を集めることができるし、食料も確保することができる。これができるのはかなりのキレ者ですよ。
【編集S】あらゆることができる人だったんですね。
【本郷】そうです。その後、秀吉が亡くなると戦国時代のクライマックス「関ヶ原の戦い」が起こる。関ヶ原は戦国時代に入るんだけど、いろんなドラマがあるので次の章にしましょう。