人生で大切なことは、母から繰り返し言われた「この一言」だった──『人は話し方が9割』の著者・永松茂久氏はユニークな人材育成法を多くの人に伝えてきた。
その背景には、自身の人生を支えてくれた母からの言葉があったと語る。本稿では、その母の言葉とエピソードを綴ったドキュメンタリーエッセイ『喜ばれる人になりなさい』から、母から学んだエピソードを紹介する。
※本稿は、永松茂久著『喜ばれる人になりなさい 母が残してくれた、たった1つの大切なこと』(すばる舎)から一部抜粋・編集したものです。
父からの電話
2015年、僕と弟の経営は共に順調だった。
飲食店事業である、陽なた家グループは大分の中津に2店舗、そして福岡市のメイン繁華街である大名に出した「大名陽なた家」も予約でいつも満員御礼。
その勢いに乗って博多水炊き、弟が初経営者としてはじめることになった博多ラーメンの店を同じ通りに出店したばかりだった。
その頃の僕は人材育成事業として、全国を講演でまわり、その流れではじまった執筆業も累計で80万部に到達し、出版スタジオのプロデュース作品も30作を超えるようになっていた。
新しく出店した2店舗とも順調に滑り出し一息ついた頃、久しぶりに父から連絡があった。
「茂久、久しぶりだな。そっちは順調か?」
「うん、おかげさまで幸士(弟)の店も調子いいよ」
「そうか。よかった……」
父はそう言ってしばらく沈黙した。ふだんないことなので少し嫌な予感がした。
「実は大変なことが起きた」
「なに、なに? 直球で言って」
「……たつみが癌になった」
一瞬詰まったが、僕はすぐに気を取り直した。そもそも30年前も母は癌になった経験がある。
しかも今の時代、60歳を超えれば人はなんらかの故障を起こす。2人に1人は癌になる時代なのだ。そのことを父に言った。
「そうなんだけどな……。そんな軽い場所ならいいんだけどな……」
いつも強気で元気な父の声が重い。大げさな表現をするタイプではないので、なおさら嫌な予感がした。
「すい臓癌だ。そしてたぶん転移してる」
父いわく、初めての検査に行く前、母は1週間ほど食欲がなかったらしい。
経営していたフィットネスクラブの2号店のオープンによる疲れも溜まっていると思い、いつも出張で来てくれるマッサージ師の女性に、予定を前倒ししてもらって施術に入ってもらったらしい。
そのときに開口一番、母に黄疸が出ていると言われ、父の知り合いの病院に行った。その検査の後、すぐに設備の整った病院を紹介され、そのまま精密検査を受けたということだった。
母は若い頃に病気をして以来、健康オタクだった。いつも家には新しい健康食品やサプリ、水などが並び、そのときのブーム商品を僕たちに押し付けてきた。
僕たち飲食店は肉体労働だ。当然、身体になんらかの疲労が溜まると身体が痛くなることだってある。背中をほぐそうと実家に帰ってマッサージ機に寝っころがっていると
「あんたすい臓が悪いんじゃない? すい臓は本当に怖いのよ」
といつも言っていた。
そもそもその言葉で、僕はすい臓という存在を認識したくらいだった。
しかも転移すると末期だということも母から聞いていた。
まさかその母本人がすい臓癌になるとは。
「検査はいつ?」
「もう終わって明日最終結果が出る」
「わかった。立ち会う。今から戻るよ」
そのまま僕は弟の幸士を車に乗せて、福岡から中津に戻った。以前は福岡というと中津からかなり遠かったが、高速がつながったので飛ばせば1時間半もかからずに戻れる。
何かを感じた無言のままの幸士との車の中で、高速道路をつくってくれた見知らぬ"おかげさま"の存在に感謝したのを今でも覚えている。
プロジェクト発足
「母さんは?」
僕たち2人は実家に帰り着くと同時に父に聞いた。
「仏間にいるよ」
曇りガラスの切れ間の透明な部分から覗くと、母は仏壇の前に正座して座っていた。声はかけなかった。
「2人ともこっちに来い」
父から呼ばれ、僕たちは実家の1階部分にあった閉店したお店の跡地に連れて行かれた。
3人とも無言だった。口を開いたのは幸士だった。
「父さん、すい臓癌ってそんなに悪いの?」
「……よくわからないけど、たぶん悪いな」
ふだん気丈な父がうっすら目に涙を浮かべていた。
それで僕たち2人は本格的に状況を理解した。