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生き方

今年107歳で逝去した美術家・篠田桃紅「人を招くことの、主役はやはり人ではないか」

篠田桃紅(美術家)

2021年11月04日 公開

 

秋にはふと何かが心の裏に聞こえてくる

二、三日前、東京の空に、刷いたように白い雲が流れているのを見た。刷いたようにとつい書いたが、さっと一気に書いた刷は毛目に似た巻雲がきれいだった。建物で限られた空にも、いっときにさまざまの雲がいるもので、鰯雲のさざ波は筆のかすれのようで、また、淡墨のにじみを思わせて空の青に吸いとられていく泡みたいな雲もあった。

すぐ筆墨に結び付けるようだが、べつに雲を写したいとは思わない。雲ばかりでなく、花鳥風月の写生ということはしたことがない。雲が、たまたま刷毛目を思わせても、筆や刷毛で雲を書きたいと思うようなことは全くない。

それよりもめぐる季節、今ならば秋、その季節の訪れ、訪れ方が刷毛でさっと刷くように来ると感じられたり、筆の線の伸びるようにすうっと寄り添うと思われるような時があって、そういう形のないものをかたちにしたいと希うことが多い。

木の葉の色や時雨の匂い、人の瞳の奥など、こまやかな織物を見る時のように、近々と眼を寄せたくなるものの多い秋の地上にいて、天上を渡って来るものの、測りしれない大きなふところにつつまれたいと思う。

その測れないものを測れないまま、墨に置き替えたいと大それたことを思うのは、今年の酷暑のほてりがまだ身心に残っていて、のぼせが醒めていないためかもしれない。

季節がもし、依代というものに降りることがあるなら、筆の穂に降りて来て欲しいなどと虫のいいことを考えるが、依代となれるかなれないかは、季節と人とのかかわり方にかかっていると思われるから、そうなると心細いことである。

放浪の旅に出たり、山居して心耳を澄ましたり、そういう気の利いたことはなかなか出来ないが、ただ普通に生きている者にも、秋にはふと何かが心の裏に聞こえてくるような気がすることがある。衣食住のことや仕事に追われていても、その合間々々に、少しの隙間に、秋が佇んでいて何とはなしに、日常のほかの方角に思いが誘われていることがある。

私の小屋のある村は「お盆(旧暦)が過ぎれば炬燵の支度」というように、滅法秋が早い。プロパン・ガスが普及しても、夜は炬燵で一杯という習慣は依然として根強いから、漬け物や干し物と、長い冬のためにおとな達は忙しい。野菜物を頒けて貰いにゆくのも邪魔かと気がひける。

子供達は学校から帰ってくると、山の方へあけびの実を採りに行く。うちのあたりにも紫色の殻がいっぱい落ちていて、その傍に同じ色に龍胆の花がさいていたりする。

これで今年はおしまい、といちばん遅まきのとうもろこしを、どさりと私の籠に入れてくれる時の村人や、道で行き会うとあけびの実を一つ二つくれる子供達の眼には確かに秋が宿っている。それがこちらの心にもにじみ伝わってくる。

それにつけても若者がいないなと思う。秋も、冬も春も夏も、彼等はクルマに乗っているのであろうか、様子が知れない。穂の出た一面のすすき野に立って、遠くに眼を遣っているような若者のすがたはすてきな秋の依代となる筈なのに、そういう風姿はいっこうに見当たらない。

炬燵やあけびもいいけれど、若者のいない風景はやっぱりわびしい。そんな風に思うことも、私の心のはたらきの貧しさが、風物に助けを借りようとしているからであろう。

 

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