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生き方

「絶対誰にも知られてはいけない」世田谷事件、被害者の姉が抱えた苦悩

入江杏(文筆家、上智大学グリーフケア研究所非常勤講師)

2022年06月28日 公開 2024年12月16日 更新

「絶対誰にも知られてはいけない」世田谷事件、被害者の姉が抱えた苦悩

グリーフケアの啓発・普及を続け、悲しみにある人々に寄り添う活動を続ける入江杏さんは、2000年に起きた「世田谷事件」の被害者遺族です。しかし、事件から6年間、だれにも事件のことを話せなかったといいます。

「このことは絶対だれにも知られてはいけない」と強く口外を禁じたのは、事件の第一発見者でもあった入江さんの母親でした。事件との関わりを世間に知られることで遺族へ向けられる差別や偏見を懸念したのです。

「ひとりで4人の亡骸を見た母親の辛さを思い、その願いや、いいつけに背くことができなかった」と、語る入江さん。その沈黙を破るきっかけとなったのも、母親の何気ないひと言でした。

※本稿は、入江杏著『わたしからはじまる 悲しみを物語るということ』(小学館)から一部抜粋・編集したものです。

 

遺族に向けられる差別や偏見を恐れて

「世田谷事件の遺族です」

たったこれだけのことをいうのに、6年かかりました。事件後、母は私に「決して事件のことを口外しないで」と強く求めました。

事件の第一発見者になってしまった母が何より恐れたのは、事件との関わりを世間に知られることでした。遺族となった私たちへの差別や偏見。遺された私たちを思っての、母の強い懸念。

何よりただひとり、4人の亡骸を見た母の辛さを思うと、私は母の願い、母のいいつけに背くことができませんでした。語ることができなかったのです。苦しい日々が続きました。

その母と私が精神的に訣別して、自分からの発信を決意したのは、母が、ふとつぶやいたある言葉がきっかけでした。

「にいなちゃんは、日本の宝だった」

なぜ「日本の」?目に入れても痛くない自慢の孫だったかもしれないけれど、日本の宝かどうかはわからない。微笑ましいというよりは、身びいきが過ぎるように感じました。

「礼くんは亡くなっても仕方がなかった……」

「礼くんは今生きていたってもっと大変だった」

甥の礼は3歳児検診で自閉傾向のある発達遅滞と告げられていました。

家族に障がいを持った人もいないし、おしゃまなにいなちゃんの子育てに苦労をしたことはない妹夫婦でした。礼くんの障がいを告げられたとき、当初、受容できずに苦しんでいた妹。

その苦労を思っての母のひと言だったのかもしれません。

母の心配は当然のことだったかもしれないし、甥の行く末に対して、私だって母と一緒になってあれこれ余計な心配をしていたのに。

母の言葉に突然怒りが降って湧きました。自分でもびっくりするほどの怒りでした。

「なんてこと言うのよ!」

私の反応は母には意外だったかもしれません。

「ああいう子が大人になったら、もっと世話が焼けるにちがいない」という世間一般のステレオタイプの見方を、母は、ただ口にしただけだったかもしれないのに。

私の中のスティグマ(負の烙印)をあらわに突き付けられたからこそ、あんなに怒りが噴出してきたのかもしれません。

 

隠されていた母への怒り

母はひどくびっくりしていました。

「呆れたわね、大声出して」

「礼くんは生きていても仕方がないっていうの?」と畳みかけた私に、「礼が奇声を発して大変だったときは、あなたは外国にいて知らないじゃない?」

外国暮らしをしていた私に、きれいごとをいう資格があるの?という調子です。責任感が強く、礼くんの面倒をよく見ていた母でした。

「『大丈夫、大丈夫』っていうだけで、どう『大丈夫』なのか何にも説明しない人もいたしねえ。あなたたちがいないとき、泰子が忙しいとき、私がひとりで礼くんの面倒を見たんだから」

私が母を怒鳴りつけてしまったその夜のこと。母の全身にアレルギー性の紫斑がみるみる広がってしまいました。

10円玉ほどから、しょうゆ小皿ほどの大きさまで、小豆色の紫斑が、顔以外の場所に浮かび上がってきました。体調の急変を訴える母を、夫の運転で、近隣の大学病院の救急外来に連れて行きました。

「実の娘にこの年になって、叱り飛ばされるなんて」とずっとつぶやいていた母は、大きな窓に面した個室へすぐに入院できてほっとしたようでした。

まもなく、普段と変わらず、あれこれ、私と日常会話を交わすようになりました。母には私の反応は思いがけなかったと思います。

「まったくねぇ、礼くんは手がかかったからねぇ。おばあちゃんも大変だったわね」と、私がいつものように調子を合わせるだろうと、母は思っていたにちがいないからです。

実際、そうすることは簡単でしたが、そのときはどうしてもできませんでした。長女として、子どもの頃から母の語りの聞き手になっていた私、常に母の味方としてふるまっていた私ですが、そのときはそうしたくなかったのです。

病院での手厚い看護のおかげで、幸いすぐに退院できたものの、この頃から、母の体調は一進一退を繰り返しながら、少しずつ衰弱していきました。

看取りまでの道のりにはいろいろ起伏はありましたが、母の最期は静かで穏やかでした。私と息子、母の弟妹、親戚に見送られ、花に囲まれた葬儀。秋の穏やかな日でした。

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心にしまい込んだ感情を受け止めること

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