長宗我部元親、四国に蓋をする!~織田信長が瞠目した怒涛の進撃
2010年11月11日 公開 2022年12月22日 更新
土佐を平定した元親は、続いて四国の覇権を狙い、破竹の勢いで阿波を席捲、さらに讃岐、伊予を窺う。驚いた信長は一大遠征軍を編成、その企図を挫こうとするが、本能寺の変が勃発。「機(しお)だ」。元親は勇躍、進撃を続けた。
※本稿は『歴史街道』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
長宗我部元親の野望
土佐の統一という長宗我部家の悲願を果たした天正3年(1575)、この37歳になる出来人は、いちはやく戒名を手に入れた。
『雪蹊恕三大禅定門(せつけいにょさんたいぜんしょうもん)』という堂々たる名である。
そこにある「恕三」なる法名は元親みずからがつけたものらしいのだが、頭にある「雪蹊」なる雅号(道号)こそ、策彦(さくげん)周良という臨済宗の禅僧に授けてもらったものと伝えられる。
その策彦。天竜寺の僧ながら幾度も明に遣いした外交官で、大内義隆、今川義元、武田信玄、織田信長といった大名から篤く敬われた。五山における碩学といっていいが、実際、岐阜という地名もこの策彦が信長に請われて考案したものといわれ、そうした名望から元親もまた授戒を頼んだものらしい。
かのおり、策彦は元親の初陣から土佐を掌中のものとするまでの経緯(いきさつ)をつぶさに眺め、 『海内(かいだい)に聞こえたる文武兼備の名将なり』そう評価し、雅号を授けたとされる。 もっとも、誰も彼もが元親の実力を認めたかといえば、そうでもなく、たとえば、信長などは鼻で喋ったような節がある。
元親はなかなかの策士で、海内におのが名を知らしめるというだけでなく、のちのちの備えとして外交にも重点をおいた。当時、中原に覇を唱えつつあったのはむろん信長で、この尾張の雄を味方に取り込んでおくのが良策であると踏んだ元親は、妻女の緑をたよって信長に好誼を通じようとした。
『嫡男弥三郎の烏帽子親になって戴きたい。』というもので、遣いには家老の中島可之助が立った。ついでながら、元親の妻は明智光秀の股肱となっていた斎藤利三の異母妹で、そうした緑から信長への橋渡し役は光秀がひきうけている。
ただし、信長は烏帽子親になることは諾したものの、土佐の田舎者など最初から小馬鹿にしている。元親をして「鳥無き島の煽煽(こうもり)」と皮肉ったのも、そうした心情のあらわれだったろう。こうした評価に対し、可之助はさにあらずとばかりに機転をきかせて「蓬莱宮のかんてんに候」と答えている。
元親は、鳥無き島ではなく仙人島の宮殿にあり、夜空をさまよう煽幅ではなく夜空にかがやく漠天(天の川)のような存在であるといいかえたわけだが、信長はこれを「当座即妙の返答」と褒たたえたらしい。
元親の戦略眼は一流のものといってよく、それは四国の中央部にある三好方の白地(はくち)城を押さえ、そこを拠点に平定戦をかさねていったことも証となろう。
もっとも白地への進出よりも先に、元親は天正3年の土佐統一後、早くも阿波の南部へ兵を入れている。これは阿波の海部氏に弟の親益(ちかます)を殺害されたことへの復讐という意味合いもあった。この白地進出の前哨戦により阿波の大小豪族は元親になびき、以後の平定戦は有利に運んだ。
その白地だが「四国の辻」と呼ばれた。辻というのはすなわち四方八達した衞(く)地をあらわす。土佐、阿波、讃岐、伊予のいずれにも兵を遣わせられる要衝ということになり、元親はここを押さえて四国を布武していったのだが、ひとつ、挿話がある。
白地から讃岐へ打ち入らんとした天正5年の春、元親は、阿波と讃岐の境にあって「四国高野」と呼ばれる真言宗御室派の巨鼇山(こごうさん)雲辺寺へ立ち寄った。そこで饗応をうけたが、その際、四国を平定せんという抱負を語った元親に、住持の俊崇坊は次のような対話をもった。
「貴国七郡の小勢をもって、この11郡の大国を打ち随えられんとするは、あれなる茶釜の蓋をもって、ここにある水桶を覆わんとするに等しい。底大にして蓋小なり。お志は闊大であるが、とてものこと叶うものではない。急ぎ、ご帰陣そうらえ」
「この元親が茶釜の蓋は名人の鋳たる蓋にて、すでに土佐より阿波までも覆うてござる。いまに四国の蓋となって、貴僧のお目にかけて進ぜよう」
身のほどを知らぬような豪語であると俊崇坊の瞳には映ったことだろうが、以後の元親の進攻ぶりは、かつて策彦が評価したとおり、凄まじいの一語につきる。
一領具足といわれた半農半兵の猛者どもを駆使して阿波を席捲したかとおもえば、伊予へも長駆し、休む間もなく戦いつづけ、いまだかつて誰も成し得なかった四国に蓋することを現実のものにしていった。