ビジネスパーソンに必須のスキルだが、苦手な人も多いのが、交渉だ。歴史を見ると、厳しい場面で見事な交渉を行なったシーンが数多くある。歴史家の加来耕三氏に、その中でも代表的なものを取り上げ、解説していただいた。
※本稿は『THE21』2022年1月号より一部抜粋・編集したものです。
伊達政宗...申し開きの場に死に装束で現れた
歴史に名を残す交渉の達人として、真っ先に思い浮かぶのは伊達政宗です。彼は巧みな交渉術によって、何度も死地を潜り抜けました。
中でも真骨頂を発揮したのが、豊臣秀吉による小田原の陣のときでしょう。政宗は秀吉から「小田原の北条を討つから、そなたも参陣せよ」という書状を受け取りましたが、しばらく無視していました。もともと伊達は北条と同盟を結んでいたからです。最終的には秀吉側につくことを決めるのですが、いささか遅かった。秀吉の怒りを買い、所領が没収される可能性も、切腹も十分にあり得ました。
そこで政宗は策を巡らします。秀吉に申し開きをする場に、死に装束姿で現れたのです。
秀吉は派手なことが大好きです。すっかり喜び、一部の所領を没収するだけで政宗を許してしまいました。
こんな芝居がかったことをしたのは、秀吉の性格をよくつかんでいたからです。相手に合わせて交渉のスタイルを変えるのが政宗流です。
政宗は、戦国時代の武将の中でも有数の教養人でした。和歌や茶道を語らせれば、徳川家康や前田利家は足下にも及ばなかったことでしょう。
当然、理を用いた交渉を行なう能力も備えていました。
ただ、秀吉については、理屈を持ち出すよりも、パフォーマンスで示したほうが有効だろうと判断したのです。
では、なぜ政宗は、会ったこともない秀吉の性格を把握していたのか。それは、優れた情報収集力によるものです。
彼は非常に筆まめで、また、社交の場にも必ず現れました。そうやって情報ネットワークを張り巡らせていたのです。
「偽物」と言い切った書状に施した細工とは?
政宗が秀吉を相手に交渉力を発揮したのは、このときだけではありません。
その後、政宗は、秀吉の家臣の所領となった奥州の葛西・大崎において、人々を煽動して一揆を起こさせました。
これにより旧領地を取り返そうとしたのですが、政宗が一揆勢に送った手紙が、秀吉の重臣だった蒲生氏郷の手に入ってしまいました。「政宗が謀反を企ているのではないか」と疑った秀吉は、政宗を呼び出します。
すると政宗は、このときもやはり死に装束姿になったうえで、さらに金の十字架を担いで秀吉の前に現れました。秀吉は内心では喜んだでしょうが、さすがに同じ手が通用するはずがありません。秀吉は書状を手に、政宗に釈明を求めます。
すると政宗は書状をひと目見て、「これは偽物です」と言い切りました。政宗が書状に記す花押は、鳥の鶺鴒の形をしています。「私自身が書いた書状は、鶺鴒の目の部分を針で突いています。でも、この書状には、それがありません」と言うのです。
驚いた秀吉は、これまで政宗から届いた書状をすべて確認します。すると、確かに目に針が通っていたのです。これにより、政宗は疑いを解かれました。
政宗は、一揆を煽動した書状については、秀吉方の手に渡る場合を想定して、針で突いていなかったのです。
ここからわかるのは、政宗が用意周到な人物であることです。金の十字架を担ぐというパフォーマンスが失敗に終わったら、次は「この書状は偽物だ」と言い訳するという策を、あらかじめ練っていたはずです。
交渉事は、二の手、三の手を用意しておくことが大事です。
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