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2022年4月に75周年を迎える月刊誌『PHP』は、多くの読者を励まし続けてきました。2021年2月号ではイラン出身の俳優のサヘル・ローズさんが、孤児だった自分を育ててくれたお母さんへの思いを語っています。
お母さんからもらったたくさんの言葉は、サヘル・ローズさんの胸にいつもあります。その言葉のひとつひとつが、血のつながっていないお母さんとサヘルさんとを、実の親子以上に強い絆で結びつけているのです。
※本書は月刊『PHP』(2021年2月号)より抜粋・編集したものです
孤児院で暮らした7歳の少女の小さな手
「お母さん」
イランの孤児院で生活していた当時7歳の私は、施設を訪ねてきた初対面の女性に、そう言って手をのばしました。
初めて会う人なのに、どうしてそう呼んだのだろう。自分のことながら今でも不思議なのですが、当時まだ大学院生だった20代のその女性は、私を引き取ってくれました。
「『お母さん』と言って、さしだされた小さな手を、振りはらうなんてできないでしょ」
後に、母はそう話してくれました。
いじめに苦しんだ中学時代に見た「母の涙」
母は15歳まで祖母のもとで育ち、「将来は恵まれない子ども達を救いなさい」と言われていたそうです。独り立ちをして、お金をためて、もし施設で運命を感じる子に出会ったら引き取ろう、と決めていました。
「この子の母親になる」という母の覚悟は、並々ならぬものでした。当時のイランでは、子どもを生めない女性しか養子縁組をすることができなかったため、母は医師に頼んで自ら妊娠できない身体になったのです。
それに、それまで裕福な家庭で育ち、大学院にも通っていたのに、私のことで両親と揉め、勘当されてしまいました。
行き場を失った母は、学生結婚をして日本で働いていた夫を頼り、私を連れて日本に来ます。しかし、すぐに夫との関係が悪くなり、家から追い出されました。
ここは、頼る人もいない、言葉も話せない日本。たどりついたのは、よく遊んでいた公園でした。二人で野宿をして、夜はスーパーの試食コーナーで空腹をしのぎました。
公園での生活は二週間ほど続きましたが、母はしんどいはずなのに常に笑顔でした。母の顔を見ていると、不安が和らいで眠れました。その後、親切な方の助けもあり、なんとか二人で生活できるようになりました。
そんな強くて明るい母の涙を初めて見たのは、私が中学三年生のときでした。当時、私はひどいいじめに遭っていて、ある日、もう耐えられなくなり、命を断とうと決意します。
学校を早退して家に帰ると、仕事に行っているはずの母が、なぜか家にいました。何かを察していたのでしょう。部屋のすみにしゃがみこみ、声を押し殺して泣いていました。
「もう死にたい」
私がそう告げると、母はこう言います。
「いいよ。でも、サヘルがいないと私もいる意味がない。私も一緒につれていって」
ああ、母は、私のために命さえも投げ出そうとしている。母もつらかったんだ―。
思わず母を抱きしめました。やわらかくて、ふっくらしていた"お嬢様"だった母が、あばら骨が浮くほどやせ細っていました。
その瞬間、こんな声が聞こえてきました。
「私は、この人に何か恩返しをしたの?」
それは神様の声だったと私は信じていますが、この人を幸せにしたい、こんなすごい女性がいるって歴史に残したい、このままじゃ私は死ねない、と思いました。
初めて私に生きる目標ができたのです。それからは、「お母さん」と心から呼べるようになりました。