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名作『グラン・ブルー』の原点? リュック・ベッソンが息を呑んだ「伝説のイルカ人間」

リュック・ベッソン(著)、大林薫(監訳)

2022年06月22日 公開

 

伝説の100mダイバー、ジャック・マイヨール

新作のドキュメンタリー作品が上映されることになった。タイトルは『イルカ人間ジャック・マイヨール』だ。ジャック・マイヨールの名前は聞いたことがなかったが、イルカの友だちということなら、ぼくの友だちでもある。

映画が始まった。街をぶらつく彼を見ていると、歩くのを覚えたばかりのような印象を受ける。横断歩道や赤信号もお構いなしだ。自分を取り巻く社会のことは眼中にない。

マイヨールは海、豆腐、エルバ島、イルカについて語る。それから突然、水に飛び込むのだが、そこですべてが一変する。この男は地上に用はない。マイヨールにとって、果てしなく深い青一色の世界以外に安らげる場所はないのだ。

マイヨールは30キロの錘(おもり)に引っ張られ、たちまち水中へ消えていった。素潜りだ。呼吸装置は一切用いていない。マイヨールは、海中に垂らされたロープに沿って、次第に暗さを増していく青い世界へ優美に滑るように降下していく。

画面の端には計測タイムが表示されている。すでに1分が経過していたが、マイヨールは闇のなかを突き進んでいく。ぼくは息を呑み、口をあんぐり開けて見守った。身じろぎもせず、自分まで一緒に呼吸を止めていた。苦しくなってそれに気づいたくらいだ。

水深100メートル。水温は10度。水圧は海面付近に比べると10倍を超える。呼吸を止めてから2分が経過している。顔を歪め、苦しさに耐えるような状況のはずだ。画面に表情が映し出されればわかるだろうが、きっと生まれたての赤ん坊くらいに皺くちゃの顔をしているに違いない。

カメラがマイヨールの表情を捉えた。しかし、その顔は安らかだった。苦しさも、体の不自由さもまったく感じていないようだ。イルカのように笑みを湛え、振る舞いからも幸福感がうかがわれる。ぼくは衝撃を受けた。

こんなことってあるだろうか。この人にはぼくたちに見えないものが見えている。別次元の世界と行き来できるのだ。そうとしか説明のしようがない。

永遠とも思われる数秒間が過ぎると、観客はいっせいに「早く、浮上を」と大声で呼びかけた。息詰まる緊張感が会場を包む。すると、マイヨールは小さな風船(バルーン)を膨らませ、それにつかまって深海を離れ、ゆっくりと上昇しはじめた。やがて、頭上のぼんやりとした広がりのなかに船底の影が見えてきた。

マイヨールは風船を放し、あとはフィンを使って、イルカさながらに全身をうねらせながら浮上した。水上に出てはじめて苦痛が襲ってきたかのようだった。船上に上がると、宇宙に長く滞在していた宇宙飛行士のごとく、自分の体重を支えきれずに倒れ込んだ。疲れ果て、絶望的な表情を浮かべている。もう微笑んではいない。

観客はその場から動けず、ぼくも座席でぐったりと力尽きていた。いつか誰かがジャック・マイヨールをテーマに大作を撮ってくれないだろうかと考えるのがやっとだった。

 

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