「心は自分ではない」と認識する
「心とは瞬間ごとに変化し続ける運動である」
これは西洋心理学的な心の見方に慣れた人にとっては、とんでもなくアバンギャルドな心の観方です。ただ、そのことを理論的に理解したとしても、問題は、僕らは自分自身では、自分の心がそれほど激しく変化し続けているということをなかなか自覚できないということです。
先ほどのように目をつぶって静かに心を見つめるということを丁寧にやってみると「ああ、自分の心はこれほど激しく変化し続けていたのだ」ということがわかります。
しかし、それを日常の中で意識することは難しい。ましてや、それをコントロールすることなんて、途方もなく困難なことに思えてしまいます。
しかし、どうして僕らは、自分の心の揺れを自分で認識することができないのでしょうか?日常の中で他人と交流していると、そちらに心を奪われてしまうからでしょうか?
もちろんそれも理由のひとつですが、そこにはもっと根本的な理由があります。それは僕らが「自分の心」と「自分自身」とを同一視している、ということです。僕らが自分の心の揺れを認識できないのは、僕らが「心」というものを「自分自身だ」と強く思い込んでしまっているからなのです。
......いま、僕が何の話をしているのか、意味がわからなくて混乱している人もおられるでしょう。もう少し、丁寧に順を追って説明してみましょう。
現代人の多くは「自分の心、あるいは感情の動き」と「自分自身」とを当たり前のように同一視しています。
しかし、仏教では、「自分の心」と「自分自身」とは別のものだと明確に定義しています。拙著『自分を支える心の技法』(医学書院)の中で僕は〈「心」というのは「自分」にとって付き合いにくい隣人のような存在です〉と書きましたが、まさに文字通り「付き合いにくい隣人」のように自分の心と向き合ってみることを、僕はお勧めしています。
そのように捉えることによって初めて、僕らは「自分の心」の揺れを客観的に捉えることができるのです。よく考えてみてください。先ほど3分間、自分の心を観察してもらったとき、「ああ、自分の心が揺れているなあ」と感じた「あなた」は(完全に分離しているわけではないにしても)「心とは別の自分」だったのではないでしょうか。
あなたが普段、「自分の心が変化していること」を認識できないのは、あなたが「あなたの心」と「あなた自身」とを同一視してしまっているからなのです。
世の中には「感情的であるほうが人間らしい」という価値観が当たり前として定着しているように見えます。怒っているとき、悲しんでいるとき、妬んでいるとき、優越感に浸っているとき......そうした感情が高まっているときのほうが、「自分らしい」あるいは「人間らしい」と多くの人が考えている。
インターネット上の議論を見ても、冷静で、謙虚な人の意見は埋没し、激昂し、感情的になった人の意見が場を圧倒するということが増えている。こうした傾向の中で、僕らはどんどん「感情に甘く」なり、「感情と切り離された自分」を想像することが難しくなっているのかもしれません。
とはいえ、それは現代人だけの抱える問題ではありません。おそらく2500年前のインドでも、程度の差はあれ、多くの人が「自分の心」と「自分自身」を切り離すことができずに苦しんでいました。お釈迦様はそうやって悩む人々に〈「あなたの心」は「あなた」ではないよ〉ということを説いたのです。
「心は自分ではない」。このことは心理学としての仏教が到達した革命的な知見であり、2500年前のインドでも、現代の日本でも、変わらず人々の固定観念を覆すインパクトを持っているということだと思います。