神がいるのに不条理だらけ...それでも「宗教が必要」な理由
2022年09月01日 公開
安倍晋三・元首相の死により、メディアでは「旧統一教会」をめぐる報道が過熱化。宗教に「逆風」が吹いている。
「キリスト教を信じない学生との対話」をテーマに近著を書いたカトリック司祭(神父)が、対話を通して、「神は存在するのか?」「神はなぜ虐待される子どもを救わないのか?」といった宗教への疑念に対して答えを投げかける。
※本稿は、片柳弘史著『何を信じて生きるのか』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
虐待される子どもをなぜ救わないのか
【学生】前から聞きたかったことがあります。もし本当に神がいるなら、なぜこの世界にはこれほどたくさんの苦しみがあるのでしょう。親に虐待されて死んでゆく子どもを、なぜ神は救わないのですか。自然災害で罪もない人々が死んでゆくのを、なぜ神は黙って見ているのでしょう。
【神父】それは、誰しも疑問に感じることだと思います。納得のゆく答えは、たぶんないといってよいでしょう。
優れた神学者として知られた先のローマ教皇、ベネディクト16世でさえ、東日本大震災で被災した東北の少女から、「なぜ東北の子どもたちは苦しまなければならないのですか」と問われたとき、「わたしたちも答えを知りません」といっています。答えは神だけがご存じだということでしょう。
ただ、わたしは逆に、このような不条理な世界だからこそ信仰が必要ではないかと思っています。神を信じるからこそ、極限の状態を乗り越えられる、神の存在を感じるからこそ、乗り越えるための力が与えられる。そのようなことが多いのです。
「いるかいないか」ではなく「信じるか信じないか」
【学生】「神がいるのに、なぜ不条理な現実があるのか」ではなく、逆に「神を信じなければ、わたしたちはこの不条理な現実を乗り越えられるだろうか」と問うわけですね。
でもそれが、人間にとって必要だから神がいるということだとすれば、どうも都合のよい話に思えます。人間が必要としようがしまいが、そんなことにおかまいなく神は存在するはずでしょう。
【神父】もちろんその通りです。「人間にとって必要だから神がいる」ということにはなりません。しかし、それは同時に、「人間にとって理解できないから神はいない」とはいえないということでもあります。
「不条理な現実がなぜあるのか、人間には理解できない」、それは事実かもしれませんが、だからといって神がいないということにもならないのです。
神がいるかいないかは、人間の判断を越えたことだといってもよいでしょう。最後は、神を信じたいと願うかどうか。自分にとって、神がどれだけリアルな存在であるか。そのようなところに落ち着くのではないでしょうか。
人間がすべきなのは、神がいるかいないかの判断ではなく、むしろ、信じるか信じないかの決断なのです。