「誰も経験したことのない時代」をどう生きるか
2012年04月26日 公開 2024年12月16日 更新
平川克美氏によれば、人間が抱く欲望は止まることなく増殖していくものだという。これまでの歴史を振り返れば、欲望は競争を引き起こし、人類に成長と進化をもたらした。では、人々の欲望がピークに達したとき、社会はどうなってしまうのか。これからの日本で国民はどのように生きるべきか、解説する。
※本稿は、平川克美/著「移行期的乱世の思考 「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか」より、内容を一部抜粋・編集したものです。
マズローの「欲求5段階説」の不足
今回は、欲望や欲求について、僕が今までに考察したことを少し説明したいと思います。
欲望・欲求について語ろうとした時に必ず出てくるのが、アブラハム・マズロー(アメリカ合衆国の心理学者。1908-70)の「欲求5段階説」です。これは実は根拠があるものではなく、1つの仮説です。なぜなら、欲求なんていう心の中の出来事など、誰も立証できませんからね。
ではまず、彼の理論をもう一度確認してみましょう。マズローは欲求を5段階に分けました。最初の次元が「生理的な欲求」。食べることや排泄、睡眠といった身体的な欲求です。これが満たされると、次の段階へ移行する。そして、その欲求を充足するために、人間は行動すると言っている。
2つ目の欲求は、「安全・安定の欲求」。安全に、安定的に生きていく欲求です。それが満たされると、今度は「愛情と所属の欲求」を抱く。次に来るのは、「承認と尊敬の欲求」です。最後が「自己実現の欲求」。欲求は、物理的なものから精神的なものに駆け上がっていくものだというのがマズローの5段階説なんです。
これ自体はよくできた整理の仕方だと思う。が、これだけでは、欠けていることがあると僕は思いました。つまり、5段階の欲求が満たされた人間はどうなるのか、ということです。マズローには後日談がない。マズローの理屈では、自己実現すれば、それで人間の欲求は終わるような話になっていると思いませんか?
――確かに。では、その続きはどうなるのでしょう?
僕が考えるに、人間の欲求に終わりはないと思う。そうですね、もはやそれは、欲求と言うより、欲望と言ったほうがふさわしいのかもしれない。人間の欲望、それには限りがなく、増殖し続ける。マズローの説では、それが説明できないと思ったんですよ。
付け加えれば、マズローは後に、さらにもう1つの段階があるとしました。それが、「自己超越」です。でも、それはただ自己実現を引き延ばししたものでしかないように思えます。僕は、人間の欲求や欲望の問題の一番のポイントは、"なぜそれが、拡大再生産するのか"ということだと思っている。
どうもマズローの5段階説を見ていると、あまりに図式的であり、この縮減モデルとは違う補助線を入れないと人間の欲望の全体像を捉えることはできないように思えたのです。本来、欲求・欲望は、5層のピラミッドのような1つの図式では語れないものではないか、と。
――そうですね。もっと複雑な感じがします。
欲望はアンビバレント
そう。実際、このマズローの仮説に対しては、様々な意見があるんです。そして、僕は僕なりに欲望に関する仮説を考えた。これは、実は僕が、長い間、考えてきたことなんです。
例えば、執着、固着、酒に溺れる、過食、それから、洋服をやたらに買い込む、といったことは、胸に手を当てれば、誰にでも思い当たることではないでしょうか。「どうして、あそこで自分の欲求を制御できなかったのだろう?」と振り返る経験は誰にでもある。
だいたい、欲望は自分の身を最終的には滅ぼしてしまう方向に行くわけです。ところが、逆に言うと、欲望がないと進歩もまたない。欲望とはアンビバレント(両義的)なものであり、人間の世界に起きる出来事には常にアンビバレントな意味が含まれていると言えると思います。
しかし、現実にはこのアンビバレントな状態をそのまま受け入れるということに耐えられない。そこで、それを分解してAかBかという2項対立を立てて選択の問題にしてしまう。
僕は、アンビバレントな問題とは、2項対立による選択の問題なのではなく、抑制の問題だと思っています。つまり欲望は、それを認めるのか、あるいは、悪しきものとして退けるのかという問題ではなく、抑制の加減が問題だということです。だって、否定しようがしまいが、欲望がそこにあることは事実であるわけで、それをないことにすることはできませんから。
性欲、食欲、金銭欲、権力欲といったものは、抑制の加減の問題であって、それ自体を否定したり、肯定したりするような種類の問題ではないということです。
この抑制の問題を社会に敷衍(ふえん)してみたいのですが、例えば産業革命によって人間の生活はどう変化したか。近代化以前の家内制手工業の時代、あるいはそれ以前の狩猟や漁労の生活は、確かに不便な時代であったかもしれません。しかし不便というのは現代から振り返ってみての話であって、当時は、そんなふうには考えなかったはずです。
例えば、イヌイットの生活を考えてみればよいかもしれません。
イヌイットの生活というのは、基本的にはその日に食べるものを獲って、必要以上に獲らないというものです。厳密には最近はそこにも現代文明が侵食しているようですが、基本的には自然と共生している生活がある。また、必要以上には捕獲しないとはいえ、多少はそれを補完し、例えば、余った肉を発酵させて貯蔵したりもする。しかし、原則的にはその日に食べるものを獲るだけです。で、それを食べると、それ以上は獲らないのが彼らのやり方です。
そうして、イヌイットの社会のように、基本的には大きな進歩や変化がないままに世界は続いてきた。昔ながらの生活と言われるものです。これを、ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの哲学者、経済学者。社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。1806-73)は「ステーショナリー・ステート」と呼びました。
つまり、「定常状態」です。ミルは、この定常状態を過去の歴史の中から引きずり出すのではなく、未来の人類の生活の理想として構想したんですね。つまり、今は競争や成長に明け暮れる日々ですが、いつか人間はそういった明日への成長という夢から覚めて、日々の生活を充足させる変化のない日々を獲得できるというように。