「人からの評価が気になる」「生きることを楽しめない」、そんな悩みを抱えている人がいる。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏は、こうした悩みの原因には幼少期の親子関係があると明かす。なぜ他人の評価に依存してしまうのか?その原因を詳細に解説する。
※本稿は、加藤諦三 著『[新版]自立と孤独の心理学 不安の正体がわかれば心はラクになる』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集してお届けする。
「他人からの評価に頼って生きる人」の正体
人の評価に頼ってしか生きられないことの欠点は、何か試練を前にして、「だめならだめでいいや」と思えないことである。失敗を恐れるのは、人の評価に頼ってしか生きられない人である。
このような人にとって最も辛いことは他人から低く評価されることである。だから失敗することを恐れて、いつも不安な気持ちにさいなまれている。そしていつも将来のことを心配している。敵意を抑圧しているのであろう。
他人の評価に頼ってしか生きられない人は自分のために生きられない。生きることを楽しめない。
自分が生きることを楽しんでいるだけでは何か物足りない。楽しむということは自分のための行動である。自分のために存在できない人は生きることを楽しめない。
子供は母親が不在であったり、病気であったりすると愛着行動を引き起こす。しかし「子どもは母親の姿が見えたり声が聞こえたりする距離であれば、ひとりで楽しく過ごすことができる」((『母子関係の理論 愛着行動』J・ボウルビィ著、黒田実郎・大羽蓁・岡田洋子・黒田聖一訳、岩崎学術出版社、307頁)。
私は人が一人で楽しく過ごすことができる条件は心理的安定、安心感であると思っている。
不安な人は一人でいることを楽しめない。母なるものを求めてしまう。小さな子供にとっては現実の母親であり、大人にとってはその代理になるものである。ある人にとっては宗教集団であり、ある人にとっては仕事であり、ある人にとっては配偶者であり、ある人にとっては恋人であり、ある人にとっては名誉であり、ある人にとってはお金である。
つまりそれらのものによって自分を保護してもらおうとしているのである。強迫的に名誉を求めている人は、結局強い愛着行動をしていると解釈できないだろうか。小さな子供が母親の不在や、病気や、苦痛な時に泣き叫ぶのと同じなのではなかろうか。
不安が引き起こす"権力への渇望"
小さな子供が母親の後を追い、泣きつくように、不安な大人は、名誉の後を必死で追いかけているのではなかろうか。小さな子供が苦痛な時に「母親に抱かれようとするのをやめなさい」と言っても無理なように、不安な大人に「権力を求めるのをやめなさい」と言っても無理である。
まさに彼にとって権力が母親代理なのである。母親の代理であるからこそその追求をやめることができない。それが強迫性ということである。
「そして母親の移動に起因する接触の断絶は、新たに強烈な愛着行動(泣き叫び、後追い、しがみつき)をひき起こし、それらの行動は両者が再び接触するまで持続される」(前掲書、307頁)
不安な人は何かによって安心しようとしている。それが強迫性である。強迫性とはそうしないではいられないということである。強迫的に名誉を求めたり、富を求めたりする人は小さい頃からいつも愛着行動を終わらせることができなかったのではなかろうか。つまり母親によって不安を解決してもらえなかった。あるいは母親自身によって不安にさせられた。
「母親に接近して、ひざの上にすわろうとする子どもの欲求を母親が拒絶すると、しばしば逆効果が生じる。すなわち、子どもはますますしがみつこうと努力する」(前掲書、308頁)
子供が愛着行動を必要としている時、母親が逆にそれを妨害する。そのような経験を積み重ねるうちに子供は不安を心の底にこびりつかせるのではなかろうか。
このボウルビィの文のような子供はまだいい。本当に悲惨な子供は拒絶されても、怖くてしがみつけない子供である。手のかからない良い子は、実は良い子になることがしがみつきなのである。親の拒絶を感じとって、良い子になるということで間接的にしがみついているのである。それ以外のしがみつきの形は怖くてとれない。
すねるというのは間接的に甘えているのと同じ考え方である。手のかからない良い子は、膝の上に乗れないから良い子になって誉めてもらうことで代償的満足を得ている。しかしこれでは本質的に不安が和らぐことはない。