野毛の飲み屋街
日本最大の人口を擁する市、横浜。観光地としても有名なエリアだが、開港以前の歴史をいまに伝える道、戦争の傷跡、アメリカが息づく場所、路地裏の名店...といった知られざる"ディープヨコハマ"も数多く存在する。
今回は、昭和の香りがいまだ残る場所、「野毛」の魅力に迫る。
※本稿は、佐野亨著「ディープヨコハマをあるく」(辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
野毛エリアのはじまり
近代横浜の歴史は、桜木町駅前から海に注ぐ大岡川と山手側を流れる中村川にはさまれた沿岸部の開発からはじまった。江戸時代に材木商の吉田勘兵衛が開拓した吉田新田とよばれるエリアである。
野毛地区は、江戸時代には野毛浦とよばれる浜辺の漁村であった。開港後、一帯は埋め立てられて野毛町となり、第二次大戦後、商業の中心地だった伊勢佐木町が進駐軍に接収されたことで、近接する野毛に闇市が出現した。
以来、現在に到るまで、野毛はそこでくらすひとびとの手によってつくられ、維持されてきたまちなのだ。
場末の自由が息づくまち
〈野毛のいいところはまず野毛を考えることだ。横浜の文化シンポジウムに出席すると異和感をいつも感じる。みんな横浜のことを考えている。それではだめなのではないか。自分を考える。自分がいい数字を残すことがチームの勝ちにつながる、という考えかたが正しいのではないか〉
〈皮肉ではなく産業社会中枢の半端な「文化」は気色の悪いものだ。金融機関の猫なで声、企業のキレイキレイ主義、官僚の厚化粧がそれだ。自由は場末にお任せあれ〉(『野毛的』)
こう書いた平岡正明は東京本郷区(現在の湯島)の生まれだが、変わりゆく東京の風景に嫌気がさして横浜を終の棲家とし、自宅のある保土ケ谷の山の上から毎日のようにタクシーを飛ばして野毛へ繰り出していた。
地元有志とともにタウン誌「ハマ野毛」を発刊するなど、「平民芸術」を信奉する平岡氏にとって、野毛は産業社会の画一化に抗う最後の砦のような場所だったのだろう。
僕も20代半ば、失職して金がなく、かといって実家にとじこもっていても気分が塞ぎ込んでしまうときに、日がな一日、野毛界隈をうろついたものだ。行き場のない孤独な身体に、場末の自由な空気はとても心地よく感じられた。