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くらし

あえて綺麗にしない...横浜・野毛に“場末の空気”が漂うワケ

佐野亨(フリーライター)

2023年01月24日 公開 2024年12月16日 更新

 

昭和の香りが残る桜木町ぴおシティ


桜木町ぴおシティの地下飲食店街

桜木町駅から野毛方面へ向かうには、東西をつなぐ地下道(野毛ちかみち)をあるいていくのが便利だ。はじめて訪れたひとは地上の横断歩道をわたってしまいがちだが、3ヵ所に分かれた信号の時間差に思いがけず足をとられる。

地下道を3階までおりていくと、市営地下鉄桜木町駅に直結していて、地下2階は桜木町ぴおシティ(桜木町ゴールデンセンター)と接続している。

横浜市交通局の再開発計画の一環として、1968年(昭和43年)に開業した地上10階、地下3階建ての商業ビルだ。足を踏み入れた途端、浅草地下街や大阪駅前ビルでも嗅いだおぼえのある昭和の香りがつんと鼻孔をくすぐる。

地下2階は飲食店街で、値段も昭和で止まっているかのような立飲み居酒屋、寿司屋、中華料理店、軽食喫茶などがならぶ。7階には川崎競馬組合が運営する会員制場外馬券場ジョイホース横浜、9階と10階には場外車券場サテライト横浜が入居している。

ぴおシティの裏手は桜川新道(新横浜通り)で、その名のとおり桜川を埋め立てて造成された。桜川は明治初期にこの地の海面を鉄道用地として埋め立てた際にできた川で、もとは桜木川という。桜木町の地名もここからとられている。

桜川沿いには敗戦後、カストリ(密造焼酎)やくじらかつを売る露店のバラックが出現し、しだいに150軒近くに増えて、カストリ横丁、くじら横丁などとよばれるようになった。

1952年(昭和27年)には、現在の駅前駐車場付近に木造二階建ての桜木町デパートが建設される。横丁の店の一部もここに収容されたが、資金不足のために露店営業をつづける者も多く、1953年(昭和28年)3月に市が強制撤去を実施。翌年、桜川の埋立工事が完了した。

東京オリンピックがひらかれた1964年(昭和39年)以降、根岸線の開通や周辺の再開発によってまちの風景は様変わりし、敗戦復興の象徴だった桜木町デパートも衰退、1972年(昭和47年)に閉業となった。

現在の野毛の飲食店街は、桜木町駅から日ノ出町駅へ到る野毛大通り(平戸桜木道路)と野毛坂下から都橋へ到る野毛本通りが交わる地点までのエリアを中心に形成されている。

 

コスパにすぐれた野毛の中華料理店

横浜で中華料理といえば中華街が思い浮かぶが、値段、質、量のコストパフォーマンスを考えると野毛に軍配が上がる。

「毛沢東もびっくり!」のキャッチフレーズが印象的な三陽、小皿料理の種類が豊富で目移りしてしまう會賓楼、タンメンの名店として野毛大通りから野毛坂へ移転後も根強い人気を誇る三幸苑、などなど。

なかでも、場末の中華の老舗として枯れた風格をまとっているのが、1949年(昭和24年)創業の萬里(ばんり)である。

「私の祖父母は満州で終戦を迎え、日本に引き揚げてきました。焼け野原のなかで生きていくためには、なにかものをつくって売らなければならない。そこで満州にいたときに地元の食堂で売っていた豚饅頭を参考にして焼餃子をつくり、売り出したのがこの店のはじまりなんです」(萬里・福田大地さん)

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萬里の秘宝十九番

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