[日本人の謎]なぜ、ことばを省略したがるのか?
2012年11月30日 公開 2022年12月22日 更新
ストレートな表現を避ける日本の言語文化
日本語が肝心なことばを省略するのは、なにも言語学的な欠陥ではなく、それがひとつの言語文化だったからです。『万葉集』には死者を悼む「挽歌」というジャンルがあります。しかし、死を語る歌に「死んだ」とか「死ぬ」ということばは一度も出てきません。
わかりきったことを化粧もせずストレートに伝えることは下品なのかもしれません。「死んだ」という直接的な表現は謹んで避け、その代わりに「隠れる」「過ぎていった」「散った」という遠まわしの表現を重んじました。
ことばには魂があり、うっかり口に出すとその通りになってしまうという「言霊」文化が日本にあります。大事なことばほどうかつに口に出してはいけないのです。
磯城島〈しきしま〉の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ(万葉集 巻13-3254)
『万葉集』の柿本人麻呂歌集が訴えるように、日本の国は言霊が助けてくれる国だから、よいことを言えばよいことが出現するが、何でもべらべら喋るものではない。ことばはできるだけ謹んで遣うもので、よほどのことがない限り、恋人の名前すら心に秘めておかねばならないのです。
今でも「噂をすれば影がさす」ということわざが遣われ、うっかり口に出すとその通りになってしまう、という言語民俗信仰は生きています。「はっきりものを言う」文化と「言わぬが花」の文化の違いかもしれません。
具体的にはっきり言わないので明瞭さに欠けますが、その代わり、比喩や遠まわしの表現法が豊かになったのが日本の言語文化です。平安朝文学を眺めると「物す」という表現が多く遣われていることに気づきます。
居る、言う、食うなどの動詞を直接的に遣わず、婉曲的に「物す」と表現してうやむやにしてしまい、相手にそれとなく動きを察知してもらうのです。とくに女性のたしなみとしてそうした婉曲表現を遣いました。
たとえば、食事中に便意を催したので、はっきり言った方がいいと思っても、「ウンチをしてきます」とはなかなか言えないでしょう。便所ということばすら日本語では「はばかられる」ことばだったので、そこから便所を「はばかり」と言うようになったくらいです。
女性ことばには「文字ことば」というのもありました。直接、具体的にそのものを指摘するのをはばかって、ことばの一部を省略し、語尾に「もじ」をつけて表現したものです。
風呂に入る時に着用する腰巻などを「湯文字」と言い、ご飯をよそう道具の杓子を「しゃもじ」と言い、空腹であるという意味の「ひだるい」ということばを遠慮して「ひもじ」と言い、そこから「ひもじい」という形容詞ができたわけです。
あるいは今でも「忌みことば」というのがあります。結婚式の折に遣ってはならないことば、たとえば「切る」「別れる」「終わる」などは避けられています。披露宴を「終える」のではなく「お開きにする」ですよね。
そうなるとウエディング・ケーキを新郎新婦ふたりがナイフで切るのはあまり縁起がいいとは思えないのですが、これは「入刀」ということばに置き換えています。
新聞などのマスコミが「誰それが自殺した」と報道するのは的確な表現ですが、もし皆さんの周辺でそうしたことが起きたら、その人の死や人の不幸に対して少しでもいたわる気持ちがこもった表現を心がけるべきです。
「自殺」と「自ら命を絶つ」――内容は同じですが表現に思いやりの差があります。ご近所の家であわただしくしているので、「誰か、死んだのですか?」とあからさまに聞くより、「何か、おとりこみでも?」と聞く方が品の違いが出ようというものです。
別れる時にはっきりと別離を宣言することがためらわれるので、接続詞の「さようならば」「さらば」ということばで止めて、それ以上は言わずに別れの辛さを相手に察してもらう。この謙譲の美学が「さようなら」「さらば」という挨拶語を生み出したのです。
何事もはっきり言う、何でも口に出して言う、それが西洋文化から学んだ哲学かもしれませんが、それがすべての価値観につながるわけではありません。「言わぬが花」「秘すれば花」はひとつの奥ゆかしい文化なのです。