最高ではなく、最善を目指す
何だか分からないけれど、焦って悩んでいる人は、自分でも自分が分からないのではないだろうか。なぜ自分にとっての最良の選択をできないのか。自分にとって最善のことが、自分の神経症的自尊心を満足させないからである。
自分に適した仕事がある。しかしそれでは自分が満足できない。自分の傷ついた自尊心が許さない。自分の能力に適した仕事では、小さい頃受けた心の傷が癒されないのである。人にはそれぞれ天職と言われるものがある。それを無視する。
「籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という諺がある。それぞれの子の人格が尊重されなかった家庭では、このようなことは理解されない。その子の適性を無視して駕籠に乗る人にしようとする。
つまりなぜそこまで犠牲を払っても、駕籠に乗る人になりたいかということである。それは愛情不足だからである。人を見下げることで安心しようとしているからである。愛されていないから、草鞋を作る人では不満なのである。
自分の基準が分からない努力家は、最善ではなく最高を目指してしまう。社会的に価値のあるものは自分にとっても価値があると思ってしまう。それが自分にとって価値があるかないかは吟味されない。
自分の基準がある人には、社会的に価値があっても自分はいらないというものがある。社会的に見てもっとも望ましいことが最高である。それに対して自分にとってもっとも望ましいことが最善である。自分の基準がある人は常に最善を求める。
自分の基準が分からなくなってしまうのは、競争社会の弊害という面がある。競争していれば、それに勝つことが優先されてしまう。最善を選びやすい社会は、過度の競争がない社会である。
それでは成功とは何か
「蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘る」という格言がある。それは、他の蟹とどちらが大きな穴を掘れるか競争していないからである。
大きな穴を掘ることが蟹の世界で価値があるとする。そうなれば自分の価値に自信のない蟹は、自分の甲羅と関係なく、より大きな穴を掘ろうとする。他の蟹よりももっと大きな穴を掘ろうとする。
しかし自分の価値に疑問を持たない蟹は、自分の甲羅に合わせた穴を掘ろうとする。とにかく難しいところということで、医学部を受験する受験生のようなものである。劣等感がない限りこんな愚かなことを誰がしようか。
他人との比較も競争意識が強ければ強いほどするようになる。競争意識が強ければ強いほど、最善よりも最高を選択しようとする。その結果、自己喪失に陥る。
自分が他人に優越すると他人を軽蔑するから、自分が他人より劣ったときに、軽蔑されると思うのである。
「あることを上手く成し遂げるということと、相手より良く成し遂げるということはまったく違う。相手より良くなりたいということは、何かを上手くしたいということとまったく違う」
相手より良くなりたいという願望は、自己不適格感の償いである。相手に優越したいという願望は、つまり劣等感なのである。劣等感が競争を刺激する。そして競争に勝ちたいという劣等感がストレスとなる。
劣等感は常に「現実の自分」を無視して、最善ではなく最高を目指す。自分が最高であることを証明することで、自分の価値を証明しようとしているのである。
劣等感を持つ人は、最高でなければ自分に価値がないという、歪んだ価値観を持っている。そして最高でなければ、「現実の自分」が白日の下にさらされると思い込んでいる。負けることは自分の劣等性を証明するものと思い込んでいる。
劣等感を持った人の、注目されたい、報酬を得たい、認められたいという願望は限りがない。これは「穴のあいた容器に水を注ぐようなものである」とコーンは述べている。
自己不適格感は、自分でない自分を生きているときに感じるものである。他人に優越することに自分の生き方の重心がかかっているときには、自分は本来の自分として生きていないのではないかと反省することである。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。