他人からの賞賛がなければ満足できない…
神経症になった人は、辛さから目を背けるために頑張った。頑張り方が間違っていた。頑張る方向が違っていた。目標とか目的が違っていた。目標が間違っているのだから、努力すればいよいよ道に迷う。
だいたい突っ張っている人の努力は意味を持たない。走っている電車の中で、逆向きに駆けているみたいなものである。本人は駆け足をしたつもりでも、外との関係では何も変わっていない。本人は凄いことをいったつもりでも、周囲の人は、またバカなことをいってと、思っているだけ。
例えば、他人に見せびらかしたくて大きな家を作る。「わー、素晴らしい家!」と人々がいった。だけど自分の居場所がない。その人は空をつかんでいる。それが幸せの幻想。だから虚無感が襲ってくる。
そして寂しくなってもっと大きな家を作ろうとした。無理がたたってノイローゼになった。彼は皆が「ワー」と騒ぐから、自分の心と逆のことをしてしまい、ノイローゼになった。
人々は頑張りすぎたから彼はノイローゼになったという。しかし彼がノイローゼになったのは、自分を作らないで家を作ろうとしたからである。彼は頑張ったのではない、逃げたのだ。彼は他人に認められないと存在できない自分を立て直さなかった。
成功していても死んでいる人、失敗しても幸せな人
「自分自身になる」とは、「疑似自己」ではない自分になること。つまり、感情が豊かであること。自己肯定感が強く、成長欲求が強いということ。自分が自分ではない「疑似自己」では、実存的欲求不満がある。
生きていることの無意味感に苦しんでいる。神経症者は、自我価値の剥奪を怖れて現実から逃げる。落ちるのが怖いから試験を受けない。しかし人は、もし「試験を受けるか、死ぬか」と選択を迫られれば試験を受ける。
政治家になりたいが落選が怖いから立候補しない。しかし生きるか死ぬかと選択を迫られれば立候補する。立候補しなければ殺されると思えば、立候補する。
実は、現実から逃げることは、死ぬことに等しいのである。自我価値の剥奪を怖れて現実から逃げた結果、最も恐ろしいことが起きた。つまり自己の内なる力の喪失である。社会的に成功しても、それはフランクルのいう「成功と絶望」の成功である。成功しても、心は絶望している。
成功することではなく、心理的課題を解決することで人生に意味が生まれてくる。もともと人生に意味があるのでもなければ、もともと人生は無意味なのでもない。どう生きるかで人生は意味あるものにもなり、無意味なものにもなる。
個人が、不安創造的体験にうまく遭遇することから、自我の力が発展するといわれる。苦労が多ければ多いほど心理的に成長し、理解力が増す。神経症者は自分が自分を蔑む。他人が罰するのではない、自分が自分を罰するのである。
心の底では、自分が間違ったことをしていると知っている。そこで自分が自分を軽蔑する。そこで自己の内なる力を失う。ある人から評価されたい、嫌われるのが怖い、権威に逆らえない、いろいろな理由から好きなことを嫌いといった、嫌いなことを好きといった。
そして心の底では、自分のした行動や態度を知っている。自分が自分を軽蔑するのは、心理的には楽なことを選んだ結果である。嫌われるのが怖いから、本当は反対なのに賛成という。本当は尊敬しているのに軽蔑しているという。
その結果、人生に感動がなくなる。自分が間違ったことをしていると心の底では知っている。そして自分自身を軽蔑するのである。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。