謙遜の仮面をかぶった人間は親しくなるにつれ図々しくなる
親しくなるにつれて、相手に対する要求が激しくなる人がいる。そういう人は、もともと自分のなかにある幼児的な要求を抑えながら生きてきた人なのだろう。その人の本質は幼児性なのである。
しかし、嫌われること、拒否されることを恐れて、自分のなかの依存性、わがままを抑えている。そして相手に受け入れてもらうために謙遜をよそおう。
シーベリーは『自分に無理のない生き方』という本のなかで、「自責の念はしばしば謙遜の仮面をかぶったエゴイズムのみえすいた一形態である」と述べている。このような人も、つきあいはじめはきわめて謙遜な人に見える。ところが、だんだん親しくなると、本質のエゴイズムが顔をのぞかせてくる。
謙遜であることのほうが受け入れてもらえると思っているから謙遜に振舞うので、このような人はけっして本当に謙遜なのではない。よく甘えた人間のことを、近づけるとつけあがり、遠ざけると恨むと表現するが、その通りである。謙遜の仮面をかぶって近づくので、ついつい近づけてしまう。しかし近づけると、エゴイストの正体が現われる。エゴイストは、相手の人格を無視したような要求をする。
したがってうつ病の病前性格というのは、すべて相手に受け入れてもらう仮面なのである。仕事熱心、正直、几帳面、義務、責任感、相手に尽くす、これらはどれをとっても立派なことである。しかし、けっしてこれがこの人びとの本質ではない。この病前性格というのが仮面で、うつ病者の性格というのが、この人びとの本質である。
うつ病者の愛情欲求は貪欲である。この貪欲な愛情欲求こそ、この人びとの本質なのである。そして、貪欲な愛情欲求こそ、幼児性の現われである。
幼児は貪欲に母の愛を求める。そして母の愛に満足できれば、この貪欲な愛情欲求は発展的に解消されて、サラッとした性格の大人になっていくことができる。ところが、母が子供の心を理解できず、一方的に母親らしさを押しつけたりしていると、この貪欲な愛情欲求は解消されずに心のなかに残ってしまう。これが執着性格である。
たえず何かに依存していなければならず、依存しはじめると要求がましくなる。依存すれば依存するほど、ますます要求がましくなる。claiming depressionという言葉がある。
親しくなるまでは、用心深く自分のなかの依存性、要求がましさを隠す。拒否を恐れてまったく逆の態度に出る。自己卑下、自責、謙遜などである。外づらはあくまでも仮面である。本質は貪欲な愛情欲求なのである。
幼児期の母親からの愛情喪失体験が尾を引いてしまって、大人になってもさっぱりした性格になれないのである。何かにしがみついていないと、どうしても安心できない執着性格ができあがってしまう。
幼児は自己へ執着する。幼児の我執と母親の無私とがうまく関係すれば、さっぱりした性格の大人になっていくことができる。ところが、肝心の母親が内心不安だったりすると、逆に子供にしがみつく。子供は母親の期待に応えないと拒否されるので、自分の押しつけがましい、貪欲な幼児性を抑える。
そして母の愛を失う不安を根源的に持ち、母の期待に添って、潔癖で、強く優れていようとする。愛を失う不安から、とにかく親のお気に入りになろうと努力する。しかし、けっして貪欲な愛情欲求が解消されているわけではないから、子供は心の底ではいつも母親らしいやさしさ、無私の愛を求めている。
つまりうつ病の病前性格者のような人は、外づらとしてはいつも無理やり相手に合わせ、分不相応に背伸びをする。しかし心の底では、貪欲な愛情欲求が渦まき、我執そのものなのである。外づらとしては他人に尽くしながら、心の底では他人の犠牲的な献身を求めてやまない。
したがって、内づらとしては献身をしつこく求めることになる。外づらとしては自分を見失うまでに相手に合わせ、相手に尽くし、内づらとしては、心の底にあるその人の本質、我執が現われる。すべて他人は自分のわがままを通すべきだという態度である。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。