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生き方

教育熱心な家庭の子がなぜ“問題児”になるのか?

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2021年11月05日 公開 2023年07月26日 更新

幼少期に親から多くの愛情を受けた子供はいわゆる「よい子」に育つはずである。しかし加藤諦三氏は問題児になる可能性も少なくないと語る。その背景には、愛情に飢えた親の存在があると指摘する。一体どういうことなのだろうか。本稿では愛情をたくさん受けた「よい子」の心情と、彼らが問題児になる背景について述べた一説を紹介する。

※本稿は、加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。

 

子供への過剰な愛は「愛情飢餓の押しつけ」

教育学者ニイルは、最低の父親とは子供に感謝を要求する父親であり、最低の母親とは「ママのこと好き?」と聞く母親であると述べている。つまり、感情的に要求が過大な親である。

こんな親には、親自身に愛情飢餓感がある。子煩悩であることと、子供の心を理解することとは違うといわれるが、子煩悩といわれる親の中には、愛情飢餓感の強い親がいるというのが真実だろう。

さらに言わせてもらえば、子煩悩でとても子供を愛しているように見える親が、実は極めて支配的なタイプであることもありうるのではないか。一見、本心から子供を愛しているように見えるが、その愛情の真の姿は支配欲であり、父親らしさ・母親らしさを押しつけることで我が子を支配している。そうすることによって、親自身の愛情飢餓感を満足させようとするのである。

「真の愛情は間接的に示される。直接的に特別に過剰に表現される愛情は誤った愛情である場合が多い」とは、ヴァン・デン・ベルク・J・H著、足立叡・田中一彦訳『疑わしき母性愛』(川島書店)に書かれていた言葉である。

もっと一般的な表現としては、フロイトの「誇張されて表現されたものは欠如を表わす」という言葉がある。日常生活の中でささやかな振舞いによって自然に表現されたものが、本当の愛情である。たしか「過剰な虚偽の愛よりは、不足した真実の愛のほうが子供にとっては耐え易い」という言葉もある。

残念ながら昔図書館で見た本で今手元にないので正確にこのようであったかどうかは確かでない。いずれにせよ、親が自分の心の問題に直面することを避け、自身の愛情飢餓感を子供に押しつけることによって、子供をおかしくしてしまうのだ。ニイルが述べた最低の父親に関する定義も、"恩着せがましさ"という点から考えれば理解できる。

 

親としての自信がないと支配的になる

前にも述べたが、私の父は家族と海に行きたくても、決して自分から「行きたい」とは言わなかった。私に向かって「そんなに行きたいのなら行ってあげてもいいよ」と言うのである。父はどうも自分から、「みんなで海に行こう」などと言うと、それが弱味にでもなると思い込んでいるようであった。

そこで私はいつも父に「海に連れて行って」と頼んだ。もちろん私は父となど行きたくはなかった。ただ父は何事も、子供に対して恩を施すという形にしないと不機嫌であったから、そのようにしただけである。

父は明らかに子供に恩を着せること、子供を支配することで、自分の無力感を解消しようとしていた。父は座っている時ですら、もったいぶっていた。"忙しい"父親としては、そこに座っている時間はないのだが、子供のために"座ってくださっている"と感じることを、私たちは強要された。

父は父親としての自分に自信がなかったのだ。しかしそれを認めることを拒んだ。そしてその反動として、父親としての自分の価値を強調した。そんな父とのつき合いに私はストレスで消耗した。実際は暇な父に対して、「忙しいのに申し訳ない」という様子を、私はしていなければならなかった。

子育てに隠された動機がある時には、子供は何とはなしの圧力を感じる。不安、愛情飢餓感、無力感、社会的劣等感などが愛情という仮面を被って押しつけられた時、素直な「よい子」がつくられるのである。愛という名のもとに何と多くの精神的殺人が行なわれたことであろう。

 

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いつまでも子離れできない心理

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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