完璧な人とは“平凡な人”
完璧な人になりたかった。誰かに助けてもらったら、いつかその借りを返さなければならない気がして、落ち着かなかった。私には借りを返す能力がないから、人の世話になる状況を作らないようにしようと決心した。
そのための方法の一つが、完璧な人になるということ。もう一つは、たとえ満足できないことがあっても受け入れて生きようということだ。自分が完璧なら誰かの手を借りることはないだろうし、何事にも満足していれば助けてもらう必要もない。いつもこの二つを心にとどめて生きてきた。
しかし人生は皮肉だ。完璧な人間にはなれないし、置かれた環境に満足して生きようと繰り返し心に誓っても、受け入れられない瞬間が訪れる。そのせいで、自分に腹が立つことが増えた。現状に満足できないなら完璧な人になるしかないし、完璧になれないなら妥協するしかない。
どちらも選べない自分が身勝手に思えた。高速道路の分岐点でもたもたしているかのようだ。方向を定められないまま苦悩していたら、ある人に言われた。
「助けが必要なら連絡してね。私にできることがあれば手伝うから」
私がお願いするより先に、手を差し伸べてくれた。ありがたい状況にもかかわらず、すぐには決断できなかった。助けを借りてもいいのだろうか、恩返しはできるだろうか...あれこれ悩んでいたら、その人は私の手をサッとつかんで引き上げてくれた。
こんなふうに、相手の好意によって助けを受けることになった。いざ助けを借りてみると、なかなかいいものだなと思えた。相手に助けてもらったぶん全力でがんばって誠意を見せ、時が経つと今度は、私がその人を助ける機会も訪れた。
人助けというのは、必ずしも優れた能力がなくてもできることだった。特別である必要もない。バス停まで傘を持って迎えに行くだけでも、雨に降られている人にとっては大きな助けになるから。
人間はそもそも、お互いに助け合って生きているのだと思えるようになった。人助けとは貸し借りをつくることではなく、春夏秋冬がやってきて再び春が訪れるように巡りめぐるもの。
完璧な人とは誰にも頼ろうとしない人ではなく、苦しいときや困っているときに周囲に助けを求められる人のことだった。私たちはそれぞれ違う弱点を持っている。だから、少しでも余裕のある人がそうではない人を支えながら生きていかなければならない。困ったときは、誰かの助けを借りてもいい。
いつかきっと、恩返しの機会が訪れる。助けてもらったことを忘れさえしなければ大丈夫。だから、必要なときは助けを求めてもいい。成功させようとがんばったけどダメだったんだ、ちょっとだけ助けてほしい、と。何もかもうまくやろうとしなくて大丈夫。私たちはみんな、平凡な人間だから。