稼げない男は、男じゃない?…妻の姓を選んだ社会学者が問い直す「男らしさ」
2022年01月31日 公開
「傷ついてもいい権利」を男たちに
社会風刺をテーマにした作品で知られるイギリスの現代美術家グレイソン・ペリーは、その著書『男らしさの終焉』(小磯洋光訳、フィルムアート社)において、現代社会になお根強く残る時代遅れのマスキュリニティ(男らしさ)がどのように人々に害をなし、そして男たち自身を追い詰めていくのかを批評する。
これまで、男たちは(女たちのようには)仲間に弱みを見せることや痛みを吐露することを許されなかったし、一貫した揺るぎなさこそが男らしさとされ、気まぐれでいることも柔軟に変わることも許されなかった。そして、これらの条件を満たさないと一人前の男とは認めてもらえなかったのだ。それは彼らにとって、とても恥ずかしいことだった。
そんな男たちの息苦しさを訴えるペリー氏は、「新しい男らしさ」のあり方へ向けたマニフェストを提示する。
「傷ついていい権利、弱くなる権利、間違える権利、直感で動く権利、わからないと言える権利、気まぐれでいい権利、柔軟でいる権利」
もちろん、これらは要求である。これまで社会が男性にヘゲモニック(覇権的)な存在であることを強いるがゆえに、彼らから奪っていた権利の要求である。そして、そんなペリー氏のマニフェストが最後に要求する権利は「これらを恥ずかしがらない権利」である。つまり、傷ついても、弱くなっても、そして自分を変えてしまっても、誰にも「合わせる顔がない」なんて思わなくていいという権利である。
奪われたままの美学と矜持を描き直す
「ボギー、あんたの時代はよかった」
沢田研二がそう言ってステージでウィスキーをあおりながら、映画『カサブランカ』のハンフリー・ボガードに歌いかけたのは1979年。僕が2歳の頃である。
昭和はこの後10年も続くのだが、孤独をトレンチコートの背中に漂わせて歩き去るダンディズムのような「男の沽券」は、その頃にはもうすでに十分に時代遅れで、懐かしく思い返されるものだった。
それから現在まで、さらに40年以上が経つ。それなのに僕らは、そしてもっと若い世代でさえ、いまだに「分かった。パンツは洗う。でも苗字は君が変えるんだよね?」などと往生際も悪く頑張っている。
この国の変わりたくない男たちがいまでも抱え続けている変わることへの恐れと歪な頑固さは、懐かしんでばかりの「男の沽券」を立て直すこともなく、ただ「男らしくない」権利の数々を奪われたまま日々をやり過ごしてきたことのツケのようなものなのだろう。
たしかに、単に古いプライドを捨てろと言われても、美学や矜持のない人生は虚しいし、なにより不安で心許ないものである。男たちの新しい道標になる美学や矜持を描き直すには、まず、僕たちはこれまで何を奪われてきたのかということから考えてみるのもいいかもしれない。