やさしいのに、誤解されてしまう人
自意識が強く、照れがあるために、やさしい言葉を口にしにくいという人もいる。相手の気持ちを思いやるあまり、安易に言葉が出てこない、という場合もあるだろう。
相手の気持ちにとても共感できても、適切な言葉がすぐに見つからずに、言葉をかけるタイミングを逸することが多いという人もいる。
不器用かつ誠実なため、口数が少なくなりがちな場合、わざとらしいやさしい言葉を平気で口にする人と比べて、やさしくないと思われがちである。
心の中にやさしい気持ちがあるのに、それをうまく表現できないため、冷たいと誤解されてしまうのである。
さらには、心にもないやさしい言葉を表出し、やさしさを演じることで周囲を欺むく人がいる一方で、相手のためと思い、相手の成長を願って、あえてほめたり、やさしい言葉をかけたりせずに、厳しい態度を取る人もいる。
こうしてみると、やさしい気持ちを持っていることと、やさしい気持ちを表出することは、まったく別次元の話であることがわかる。
内面的なやさしさと演技的なやさしさ。それをどう見分けるか。それは非常に難しい。
「あなたのためだから」はやさしさなのか?
単に目の前の相手を傷つけたくない、嫌な気分にさせたくないという意味でのやさしさに対して、相手のためを思ってあえて厳しいことを言うやさしさもあるという指摘をしてきたが、何が「相手のため」になるのか、どうするのが「相手のため」になるのか、その判断が微妙な場合もある。
恩着せがましく「相手のため」を口にしながら、じつは相手のことなど本気で考えておらず、自分の攻撃衝動をぶつけるだけの人もいる。
それほどあくどくないにしても、人の気持ちがわかったつもりになる楽天的な鈍感さをもった人もいる。押しつけがましい親の鬱陶しさの中には、ほんとうに子どものためになる厳しさもあれば、見当違いな押しつけもある。
そうした複雑な事例は棚上げするにしても、やさしい人かどうかを判断する際には、どんな視点を取るかを意識してみる必要があるだろう。どのような視点からやさしさを判断するのかということである。
つぎにあげるのは、詩人金子みすゞの有名な作品「雀のかあさん」である。
子供が
子雀
つかまへた。
その子の
かあさん
笑つてた。
雀の
かあさん
それみてた。
お屋根で
鳴かずに
それ見てた。
人間の子どもやその母親の視点に立てば、微笑ましい平和な光景かもしれないが、雀の子どもやその母親の視点に立つと(雀の世界のことはじつはわからないわけだが)、とても悲しくせつない気持ちになる。
視点が違うと、これほどまでに評価が違ってくるということを教えてくれる格好の材料と言ってよいだろう。