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飛龍反撃!ミッドウェーで一矢報いた山口多聞

山内昌之(歴史学者/東京大学名誉教授)

2012年05月24日 公開 2024年12月16日 更新

「稀代の提督」を生んだもの

ミッドウェー海戦での活躍で知られる山口多聞は、極めてバラエティに富んだ魅力を持つ男でした。胆力や決断力、頭脳の冴え、そしてリーダーシップなどを、絶妙のバランスで兼ね備えていたのです。

再び、淵田の言葉を引用しましょう。

「山口少将は勝負度胸も太く、見識も優れ、判断行動ともに機敏であった。私は緒戦の当初から、南雲部隊はこの人が長官となって指揮したら――とひそかに思っていた」

おそらく山口は、官僚や政治家、はたまた学者といった他の職業に就いても成功を収めたはずです。

レオナルド・ダ・ヴィンチを称する際に「ユニバーサルマン(=万能人)」という賛辞がしばしば贈られますが、私は山口にも似たような魅力を感じずにはいられません。

そうした魅力は、天性の資質もさることながら、家庭環境が大きいように思えます。明治25年(1892)、山口は典型的なアッパー・ミドル(中流上層)の家庭に生まれました。父・宗義は日本銀行の理事、2人の叔父はそれぞれ学習院院長と工学博士となっています。

宗義は旧松江藩士として明治維新を体験した人物で、読書家で武道にも通じ、実に教育熱心な父親でした。「昭和の古武士」のような多聞の風格と典雅 <てんが> さは、宗義の影響によるものでしょう。

加えて「稀代の提督」を生んだものとして、経済的に余裕があり、家庭が円満であったことも大きかったように思えます。そうした一家団欒のなかで伸び伸びと育ったからこそ、真摯に仕事に取り組む父の姿に、素直に尊敬心や感謝の念を抱くことができたのです。

現代では遺憾にも忘れられがちですが、山口家のように父が範を垂れる家庭で子どもが育つことは非常に大切です。このように、日本の伝統を大切にする素晴らしい家庭の中で育ったからこそ、秀才でありながら明朗闊達に成長し、自然と将器を身につけていったのです。

さて、山口は日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎に憧れ、海軍兵学校、さらに少佐時代に海軍大学校へと進みます。ここで山口が身につけたものが、合理的な物の見方でした。

海軍は現在の海上自衛隊もそうですが、徹底的な理工系の世界と言えます。コンパスや分度器、羅針盤を用いて巨大な艦を動かすのですから、力学はじめ物理学、数学、幾何学は必須です。山口もまた、合理主義と理数系の常識を備えた海軍軍人となっていきます。

ただし、スマートな海軍の教育は、反面で荒々しく闘争心に満ちた提督を消し去ってしまったようにも思えます。実際に昭和の海軍軍人を見渡すと、平時では優れたリーダーであっても、ミッドウェー海戦のような修羅場で、胆力のある判断を下せない人物が多かった印象があります。

その点、山口は彼らとは一線を画す存在でした。もって生まれた胆力と、絶え間なき自己鍛錬で、冒頭の司令部への意見具申のように、勇敢かつ想像力に富んだ作戦を可能にしたのです。

特に山口は、心身の鍛錬を怠らなかったといいます。中国の古典からカント、デカルトにまで及ぶ読書は格好の知的訓練でした。一方で、ステーキ2枚を豪快に平らげるほどの健啖家でもありました。

日々、知力体力ともに鍛え上げていたからこそ、土壇場で迷いなく決断を下すことができたのです。

海軍大学校を卒業した山口は、第一次世界大戦での地中海遠征をはじめ艦隊勤務に励む一方で、プリンストン大学への留学やワシントンの駐在武官、そしてロンドン軍縮会議の随員を務めるなど、着実にキャリアを積んでいきました。

 

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