社会に流布する平均と比べて落ち込んでしまう。馴染みの友人と一緒にいるのになぜか疎外感を感じる。こうした"孤独感"は、なぜ生まれてしまうのでしょうか?
曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さんに、人生の中で孤独というものをどのように捉えていけばよいのか、そのヒントを教えていただきました。
※本稿は、枡野俊明著『ひとり時間が、いちばん心地いい』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです。
比べないことは難しい
人間とは所詮は孤独な存在です。しかし、一人で生きていくことはできません。他の人たちとの関係があればこそ、生きていくことができるというものです。
「自分は一人でも生きていける。誰とも関わりたくはない」。たとえそう思っていたとしても、すべての関わりを拒否することなどできません。誰かと関わりながら生きていれば、そこに比較というものが生まれてきます。
「他人と自分をむやみに比べない」。禅で「すべての存在は絶対である」と、そう教えています。他人は他人、自分は自分。そういう思いで生きることこそが、さまざまな悩みから解放してくれます。不要な比較は苦しみを生み出すだけです。他人と自分を比べても仕方がないということは誰しも承知のことではあります。
しかし、心の中では分かっているのですが、つい私たちは比べようとするものです。まったく誰とも比べることをしない。それはとても難しいことだと思います。どんなに修行を積んだ僧侶でさえも、つい他の僧侶と自分を比較してしまうこともあるものです。そこまで人間は強くないのかもしれません。
他人と比べるという心から逃れられないのだとしたら、その比べ方に気をつけることです。誰かと比べて「いいなあ」とその人をうらやむ気持ち。それは誰にでもあることです。誰かをうらやんだり妬んだりする。この感情をいっさいなくすことはできないでしょう。
実は「うらやむ」という心と「妬む」という心には違いがあると私は思っています。「うらやましく思う」という気持ちには、プラスの心があります。たとえば「あの人は仕事で評価されてうらやましいな」と思った時、「よし、自分も評価されるように頑張ろう」という気持ちになることでしょう。これが「うらやむ」という感情です。
一方で、妬む気持ちにはプラスの作用がありません。「あの人は自分より評価されている。悔しいな。大きな失敗でもして評価が下がればいいのに」。このように自分が努力をするのではなく、その人を引きずりおろそうとする気持ちになるのが「妬み」なのです。
これは何も生み出すこともなく、自分自身を成長させることもありません。誰かと比較するのは仕方がないことです。しかし、ただ比較して妬んでいるだけでなく、その比較を通して自分自身を成長させていくこと。それができれば、他人と自分を比べることもまた、人生においてはプラスに働くのだと思います。
「世間との比較」ほど無意味なことはない
さて、ここで今一つ考えておかなければいけないことがあります。つい誰かと比べてしまうこと。それは逃れることのできない気持ちですが、その感情を上手に使えば自分自身を高めることもできます。
ところが、まったく自分を高めることのできない比較があります。それは「世間の情報と自分を比較する」 という行為です。大量の情報がSNSなどを通して入ってきます。それらは有益な情報ばかりではなく、まったく無用な情報も多く含まれています。あるいは、知らなければよかったとさえ思うような質の悪い情報もあるでしょう。
それらの情報に振り回されることは避けなければいけません。たとえば世の中には「平均」というものが存在しています。「サラリーマンの平均年収はいくら」「結婚する人の平均年齢はいくつ」「一般的な家庭の預金はいくら」などなど、さまざまな「平均値」なる数字が世の中に躍っています。
国や経済の指標としてそれらの数字が示されるのでしょうが、それほど目を向ける必要もないかもしれません。必要以上に気にすれば、不安感が増すばかりです。
「世間の平均預金額は1000万円だ。それに比べて我が家の預金は100万円しかない。将来これでは暮らしていけない」。「世間の人はほとんど30代で結婚しているのに、40歳の自分はまだ恋人もいない」。世の中に示された「平均値」なるものと自分を比べ、安心したり不安になったりすることはよくあることでしょう。
もし平均に比べて預金が少ないことを不安に思うのであれば、明日から計画的に預金を始めてみればいいのではないでしょうか。それが無理な状態なら、預金ができるようになるまで頑張ってみればいいのです。
預金がたくさんあろうが少なかろうが幸せとは関係ありません。20代で結婚することがすなわち幸せなことでしょうか。自分自身がしたいと思った時に結婚することが幸せなのではないでしょうか。
具体的な誰かと比較して、自分も頑張ろうと思う。それは素晴らしいことです。しかし、まるで実体のない「世間」と比較することほど無意味なことはありません。