「仕事がつらい」「老後が心配だ」など、誰もが大なり小なり、様々な不安や悩みを抱えながら生きているものです。
では、なぜ不安や悩みは尽きないのでしょうか。精神科医の名越康文氏は、「僕らがある1つの"問い"に答えを出していないから」だと指摘します。
※ 本稿は、名越康文著『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』(PHP新書)から一部抜粋・編集したものです。
なぜ、悩みや不安は尽きないのか
どんな人でも、人生の中で悩み、不安を覚えながら生きています。
「友人ができない」「仕事がおもしろくない」「今の貯金では老後が心配だ」......。
人によってその中身は千差万別であったとしても、常に何かに悩み、将来に不安を覚え、憂鬱で暗い気持ちに陥る日々を乗り越えながら人生を送っているという点では変わりません。
どれほど頭が良くても、どれほどお金持ちでも、どれほど容姿端麗であっても、おそらく「悩みや不安と無縁の人生」というのはないでしょう。悩みや不安というのは「繰り返し襲ってくる」という性質を持っています。
僕らは悩みや不安に直面すると、その原因となる問題を解決して、暗い気持ちを振り払おうとします。しかし運良くそれを振り払えたとしても、その後ずっと、悩みや不安から解放された人生を送ることができるようにはなりません。
たいていはすぐに、同じような悩みや不安に囚われてしまう。僕を含めたほとんどの人が、そんな繰り返しの中で、人生の貴重な時間の何十パーセントかを費やしてしまっています。
例えば「恋人がほしい」と悩んでいた人がうまく美男・美女の恋人をゲットしたとしても、「この人の気持ちは私に向いているんだろうか」と四六時中不安でしかたがなくなってしまう。
あるいは、大恋愛の末に添い遂げた夫婦が、実はどこかで価値観の行き違いが生じて不和に苦しんでいたということは珍しくありません。
お金の不安であれば、大金持ちになれば解消されそうなものですが、意外にそんなことはありません。どれだけ稼いでも、お金の不安というのは消えないものです。
むしろ貯金が貯まれば貯まるほど、それを失う不安が募り、疑心暗鬼の状態に陥ってしまうほうが多いくらいです。
どうして僕らは悩みや不安からいつまでたっても解放されないのでしょう?「人生なんてそんなものだ」と割り切ればそれまでですが、世の中の人のほとんどが絶え間なく、悩みや不安を抱えながら生きているというのは、実にもったいないことではないでしょうか。
本当ならもっとクリエイティブで、世界に良い影響を与えることができたはずの人々のエネルギーが、自分の悩みや不安と闘い、またそれに囚われるという繰り返しの中で消耗されているとしたら、それはとても惜しいことだと思います。
ではどうやったら、悩みや不安から自由になり、明るく爽やかな心を保って人生を送ることができるのか。結論から言うと、仏教の教えこそが、それを可能にしてくれると僕は考えています。
この、僕らの抱える悩みや不安がどうしてなくならないのかについて考えてみることにします。
悩みの根底にある「漠然とした不安」
どうして僕らの悩みや不安は振り払っても、振り払ってもなくなることがないのか。それは結局、そうした具体的な一つひとつの悩みの根底にある「漠然とした不安」を、僕らが解消できずにいるからです。
「具体的な悩みの根底にある漠然とした不安」といきなり言われても、ピンと来ない人も多いかもしれません。それは恋愛やお金、人間関係といった具体的な形を取らない、暗く、澱んだ心の状態のことです。
どれだけ幸福そうに日々を送っているように見える人でも、その心の中には、今まさに悩み、苦しみの渦中にある人とほとんど変わらない「漠然とした不安」がある。意識していようといまいと、それはおそらくすべての人の心の中にあるのです。
「私の心にはそんなものはない!」という人は、試しに5分間でもいいので目を閉じて自分の心を眺めてみてください。
一瞬にして、頭の中は脈絡のない妄想やさまざまなイメージ、言葉の洪水になるはずです。そうした千々に乱れるあなたの心こそが、「漠然とした不安」です。
どれほど充実した仕事に就いていても、どれほど子育てや家族との時間を楽しんでいる人であっても、心の底の深いところをのぞくと、そこには漠然とした不安に苛まれる部分がある。
心のどこかに、常に「このままでいいのだろうか......」という暗い予感がある。そのことについては実は、どんな人も例外はないのです。
僕たち日本人は物質的に恵まれ、犯罪も少ない国で生活を送っています。環境面でも、社会面でも、これほど恵まれた国はないかもしれません。しかし、それにもかかわらず、僕ら一人ひとりの心の中には暗く、澱んだ「漠然とした不安」がある。
なぜこれほど恵まれた生活を送っている僕らの心の中に、不安があるのか。それは、僕らがある1つの「問い」に答えを出していないからです。
その問いとは、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」です。
これはすべての人間にとって、他に比べるものがないくらい根源的な問いです。人間は生まれや育ち、その後の出会いによってさまざまな人生を歩むことになります。しかしながら、ただひとつ「やがて死ぬ」という運命については例外なく共有しています。
男でも女でも、お金持ちでも貧乏でも、いずれは死にます。しかし、だとすると僕ら一人ひとりが日々を苦労しながら過ごしているこの人生には、いったいどういう意味があるのでしょう?僕らはなぜ「やがて死ぬ」のに、大変な思いをしながら生きているのでしょう?
僕らは、「不治の病」に侵された人を見て「なんてかわいそうなんだ」と思います。しかしよくよく考えてみれば、そんなふうに感じている僕ら一人ひとりだって、遠からず「やがて死ぬ」という現実からは逃れることはできません。
「やがて死ぬ」という点においては、そうした病に侵された人と僕らの間に、なんの違いもない。この矛盾に満ちた過酷な現実をどう受け止めればいいのでしょうか?
考えても、考えても、なかなかこの問いには答えが見つかりません。ただ、この問いに向き合い始めると、不思議なことに、その人の悩みや不安、あるいは人生が、それまでとは違った意味合いを持ち始めます。
皆さんも少し、この問いに思いを巡らせてみてください。あなたが今やりがいや生きがいを感じていること、どうしても成し遂げたいこと、大事にしたいこと......そういったものは、あなたが死んだ瞬間、あなたの両手から離れてしまうという現実について、ありありと想像し、考えてみてください。
おそらくその瞬間、皆さん一人ひとりが抱えている、仕事や友人、あるいは恋愛の悩みや不安の見え方、捉え方が、これまでとは大きく変化し始めるのではないかと思います。そして実はこのとき、皆さんは既に、仏教を学ぶ「入り口」に立っているのです。