生きていれば誰しもが、逃げ出したくなるような辛い出来事に直面します。多くの人が「苦しみのない、楽しいだけの人生」をおくりたいと願うものです。一方で、逃げるばかりでは決して掴めない、「苦しみの効用」も存在するのではないでしょうか。
心理学者の加藤諦三さんが、「先哲の言葉」が持つ意味をひもときながら、「目の前の現実から逃げないこと」の大切さを語ります。
※本稿は加藤諦三著『ブレない心のつくり方』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
社会的に成功しても、なぜ人生が楽しくならないのか?
その人の心が、さまざまな人生の問題を抱えているということは、その人が生きている証である。人生のさまざまな問題は不可避的なもので、どんなに避けたいと願っても避けることは出来ない。
人生が楽しくないのは、それらの問題を解決する意志がないからである。 真の自我防衛とは、「コミュニケーション能力の育成」である。社会的成功ではない。
そこを間違えて、劣等感から優越感を求める人がいる。そうして成功を求める。しかしどんなに成功しても真の安心感はない。どんなに成功しても、それで自我防衛は出来ない。失敗すれば劣等感に苦しむ。人間は絶えず、自我価値の崩壊のリスクを背負っている。
しかし価値剝奪のリスクを怖れると、自我価値を防衛しようとして、小さな世界に閉じこもるしかない。そうなれば、どうしても人と親しくなれない。
今述べてきたような問題の解決は、人類普遍の課題である。母親との原始的第一次的な絆を喪失し、誰でも不安と孤独に直面する。生きることは、日々起きてくる問題を解決することである。
別の視点からいえば、生きることは不安と苦しみを乗り越えることである。 それを拒否すれば、生産的に生きることは不可能である。人間的にも社会的にも引きこもるしかない。
どんなに社会的に偉くなっても、人生の諸問題は解決出来ない。たとえば誰にでも、親子関係から来る問題は起きる。社会的に成功した人にも、社会的に失敗した人にも親子関係の問題は起きる。
神経症は、この人生の不可避的な問題を回避しようとした結果である。人として生まれた以上、理想の環境であろうとなかろうと次々に問題は起きる。 ましてや恵まれない環境で生まれた時には悲惨である。
それを回避しようとしたためになるのが神経症であり、うつ病であり、依存症であり、究極は自殺である。まして成長の過程は、ほとんどの人にとって理想の環境ではない。
たとえば小さい頃の屈辱、孤独が大人になってからの人間関係のトラブルの原因になっている人も多いであろう。保護と安全の中で成長出来た人もいる。しかし逆に、小さい頃、誰も自分を保護してくれなかった人も多い。
小さい頃、周囲の世界が敵であった。そういう人にとって生きることは不安である。人生は不安と困難に満ちている。乗り越え不可能に見える。人間として生まれた以上、誰でも人生の挫折を経験する。
苦しみの意味を感じるのが、人生を生き抜く最良の方法
苦しみを神からのたまものと受け取ることが出来れば、矛盾を抱えた不安定な存在である人間が生きることは可能になる。
人生で苦しみが避けられない以上、苦しみの意味を感じるのが、人生を生き抜く最良の方法である。苦しみを耐える最良の方法である。
これはフランクルであり、ロマン・ローランであり、ニーチェであり、先哲に共通の教えである。
苦しみがなければ、つまり苦しみから逃げれば最後には自分の無意味感に苦しむ。絶望する。社会の中で孤立する。
他の人が皆生きることに苦しんでいるのに、自分だけ苦しみのない人生を生きようとしていれば、誰がその人と付き合いたいと思うだろう。
人は自分の苦しみを分かってくれる人と一緒にいたいと思う。苦しみのない人生を生きていれば、つまり苦しみから徹底的に逃げていれば、最後は地獄である。
戦争を起こそうとするのはそういう人たちである。だから戦争はなくならない。人間性を理解しないで、生きることに絶望する人が戦争を起こしているということを理解するのは、何よりも重要なことである。
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季節のない世界とは、笑いがあっても心から楽しくて笑うわけではなく、泣いても、心の底から悲しくて泣くわけではない。
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―――Into the seasonless world where you shall laugh, but not all of your laughter, and weep but not all of your tears.
楽しみしかない世界を求めれば面白くもなく、生き甲斐もなく、意味もない世界に迷い込むしかない。自己疎外された人の世界である。喜びは苦しみを伴って意味がある。喜びは苦しみがあってはじめて喜びとして完成する。