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生き方

親に気に入られるために頑張ってきた“真面目な人”が行き着く挫折感

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2023年05月24日 公開 2024年12月16日 更新

親に気に入られるために頑張ってきた“真面目な人”が行き着く挫折感

人生の困難に耐えられず、何事においても悲観的に捉え諦めてしまう人がいる。早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏によると、幼少期に適切な親子関係が築けず、自我を確立しないまま「真面目なよい子」を演じてしまうことが原因だと指摘する。

本稿では、他者に好かれようと「いい人」を演じてしまう人が抱えている葛藤と、その後の人生に及ぼす影響について解説した一説を紹介する。

※本稿は、加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。

 

よい子を演じなければ生きられない

真面目なよい子は、自分を支えるものを規範以外に見つけることができない。だから規範に背くことが怖いのである。現範を信じている者、納得している者は、規範意識が肥大などするものではない。

規範意識が肥大化している者は、心の底ではそれを信じてはいない。その点で心の統一性が保たれていない。まさに心は意識と無意識に分裂している。それがその人を不安にしているのである。またこの心の中の葛藤がその人を優柔不断にしている。

大切なことは規範以外に生きる支えを持つことである。人は規範にしがみついて生きているかぎり、いつまでも不安である。と同時にいつも心の底では不満である。

彼らは何もしないでいると、自分に価値を感じられない。しかし自分に自信を与えてくれるはずの仕事は、慢性的スランプである。

どんなにやっても成果が思うように上がらずに、慢性的疲労に陥る。そこでよけい単なる空虚な規範に心理的に頼りだす。仕事で成果を上げられないから、会社なら会社に対する精神的忠誠が過度になる。

このような人たちはいつか挫折する。挫折するよい子というのはよい子以外では怖くて生きられないのである。別に自分の生き方を納得してよい子でいるわけではない。

よい子でなくなることが怖い、だからそうしている。好意を得ようとよい子を演じているのである。怖いから自分で無理やりよい子になろうとしているだけである。

しかし、そのような子の心の底がよい子であるとは限らない。彼らの心の底には恐ろしく反社会的な感情が隠されていることがある。挫折するよい子は、意識のうえのよい子と無意識の領域の悪い子に分裂しているのだ。

彼らは自分にとって重要な他者に気に入られる以外に生き方がわからないのである。挫折するよい子は、親に気に入られるということが心の支えになっている。そしてそうであればこそ、その人との関係において自分の実際の感情を抑圧しなければならない。

だからこそ先に述べたとおり、幼児期に内面化した規範が修正されずにいるのだ。

こんな人は、大人になる過程でいろいろの人と出会い、心理的に成長し、規範と欲求のバランスがとれてくるということがない。

となると、その小さい頃の重要な他者が、自分の束縛者に変化する。相手の期待に応えることばかりを考えて実際の自分の感情を無視する。その人は自分にとってなくてはならないのだが、それゆえに自分にとって煩わしい人になってしまう。

そんな子は人生の困難には弱い。人間関係にも弱い。前述のように身近な人と本当に親しくなることが難しい。

心の中の統合性を失っているので、人と親しくなれない。その人の知らないその人が心の底にいる。心をふれ合うにもその心がない。無意識の領域は固く外に向かって閉ざされている。他者はもとより、その人本人でさえふれることができない。

その閉ざされた心の中にあるものを知らぬふりして最後まで生きられたとしても、その人はやはり生きたとはいえないであろう。なぜなら、他者とも自分ともふれ合うことなく生きたのだから。

おそらくその心の底に閉ざしたものと、その人の束縛感は関係があるのではないか。他者と親しくなると、その他者が煩わしく感じられ始める。

ピーターパン人間といわれる人は新しい友人を大切にする、とダン・カイリーは言う。自分の近くにいる他者が親しくなると煩わしく感じられ始める。

親しい他者は、自分の欲求の妨害者に変化する。自分が自由になりたい時の妨害者である。では自分が自由になれるかというと、依存心が強くてなれないのである。

こんな人のどこに問題があるのだろうか。

 

自我の未確立が招く、不安定な自我

一口でいえば、自我の未確立である。自我とは感情をコントロールするものである。また超自我とイドの間をつなぐものでもある。

欲求と規範を統合するものである。自我の働きがあるからこそ、人は超自我の支配するがままにもならないし、また衝撃のまま生きて破滅することもない。

規範意識が肥大化しているということは、超自我がその人を支配しているということである。たとえば仕事以外の願望がない。そしていつも「仕事がはたしてうまくいくかどうか」を心配している。それが、言葉を換えれば、自我の未確立なのである。

自我を確立していない人にとっては、身近な人が規範の代理人となる。無意識の領域にとっては、身近な人は束縛者となる。

環境の変化が意識と無意識の間にある障壁を破壊しそうになると、規範と衝動が直接激突しかねない。そのような環境の変化した状況では、無意識の領域にある衝動が障壁を壊して活動しそうになる。

そのような時にその障害となるのが、近い人である。そこで近い人が不愉快になる。近い人に不機嫌な人は、自我が未確立なのである。誰であったか父親の不機嫌について書いていた。

若い頃父親が不機嫌にしていることで嫌な思いをしていた。しかし自分も結婚して、ある時自分の家族に対し自分が父親とそっくり同じ不機嫌に苦しんでいるのを発見してびっくりする。

そのようなことはよくあることであろう。なぜなら情緒的に未成熟な親に育てられれば、その子も心理的には成長できない。家族というような近い人たちに不機嫌なのは、まず自我の未確立な人である。

そのような人も、近くない人には外面で、いい顔をする。外の人には防衛的で従順になる。外の人に対しては不安から緊張しているので、無意識の領域は完全に意識から遮断されている。

いわゆるよい子、外面がよくて内面の悪い人、それらの人は、自分の中に自分が意識しないでいる膨大な領域があるということにはまったく気がつかない。しかし近い人といる時には、緊張が解けるぶん意識と無意識とを分けている障壁が弱くなる。

近い人といる時のほうが無意識からの影響を受けやすい。自我というのは意識と無意識の領域をつなぐから、どちらの領域からも影響は緩和される。

ちょうど自我は、服のような働きをする。寒い冬の日も、暖かい下着を着てコートをはおれば外を歩ける。しかし寒い冬に裸で外を歩けば風邪を引くかもしれないし、風邪を引かなくても体力を消耗して病気になる。自我とはある意味で心の洋服のようなものである。

足立博「躁うつ病の精神療法」(『躁うつ病の精神病理』3巻 弘文堂)という論文の中に、空気のない月の話が出てくる。空気のない月では昼は灼熱で、夜は酷寒の地獄と化す。

しかしここでは灼熱と酷寒が問題なのではなく、空気がないことが問題なのだという。つまり躁うつ病では、躁鬱が問題なのではないということである。私が言いたいのは、これと同じことが自我についてもいえるのではないかということである。

自我がないために規範に縛られすぎたり、衝動をうまく処理できないで問題を起こす。規範と衝動が問題なのではなく、自我が機能していないことが問題なのである。

自我とは空気のような働きをしているのである。自我が機能していない人はやはり「昼は灼熱で、夜は酷寒の地獄と化す月」にいるようなものであろう。

内面の悪い人で外面のものすごくいい人がいる。それは正に空気のない月のようなものである。内の人に対しては横暴で、内の人が自分の犠牲になるのは当たり前と思っている。外の人に対しては逆に自分が相手の犠牲になることを喜びさえするのだ。

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「...なしでは生きられない」は思い込み

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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