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富裕層から大衆へ...“平成初期の社交ダンスブーム”の火付け役とは

山本英美(統一全日本ラテンチャンピオン),棚橋健(三笠宮スタンダードファイナリスト)

2023年09月11日 公開

富裕層から大衆へ...“平成初期の社交ダンスブーム”の火付け役とは


↑きらびやかな衣装で激しく踊っているのを間近で見ることができる

いまやテレビや漫画などさまざまなメディアで取り上げられ、SNSで世界中のトップダンサーの動画を気軽に見られるなど、身近な存在になっている「社交ダンス」。

そんな社交ダンスはいつ頃日本にやって来た文化で、社交ダンスの最前線はどうなっているのでしょうか。社交ダンスの歴史とその変遷を詳しくご紹介します。

※本稿は山本英美・棚橋健監修『1人で始められる、楽しめる! 社交ダンス入門』(辰巳出版)を一部抜粋・編集したものです。

 

遡るは鹿鳴館時代

鹿鳴館
↑鳴館時代にダンスを楽しむ男女

社交ダンスの文化が日本に入ってきたのは、1880年頃、いわゆる「鹿鳴館時代」のことです。鹿鳴館は、1880年に新橋の浜離宮で開かれた「国際社会舞踏会」がモデルとなり、当時の日本の外務卿・井上馨による欧化政策のシンボルとして1883年に建設された西洋館です。

西洋文化の入り口として存在していた場所であり、日本最高峰の楽団によるヨーロッパ最先端のボールルームダンスが踊られていました。当時、鹿鳴館ではワルツなどの宮廷舞踊が中心に踊られており、誰かとテクニックを競い合う「競技ダンス」的な考え方は、この時代にはまだありませんでした。

社交の場でコミュニケーションを取りながら踊る、という西洋の文化が入ってきたことによって、日本人は社交ダンスとの出会いを果たしました。

その後、1914年に神奈川の鶴見に「花月園」という名の遊園地がオープンし、オープンから6年後、1920年に日本初の社交舞踏場=ダンスホールである「花月園舞踏場」が開業。その翌年には日本初の社交ダンスサークル「明星舞踏会」も発足しました。

さらに1930年代にはダンス専門誌が創刊されるなど、鹿鳴館時代からさらに広い層に向けてダンスが盛り上がりを見せていましたが、1941年に太平洋戦争が勃発。その前年には鹿鳴館も解体されており、社交ダンスを含む西洋の文化は日本から姿を消していくこととなりました。

 

大人のたしなみ、夜の世界の社交ダンス

社交ダンス
↑終戦後は大人の社交場で踊られていた社交ダンス

1945年に終戦を迎えると、国内のダンスホールが営業を再開し始め、だんだんと国内におけるダンス熱が取り戻されていくようになりました。

1950年にはプロ組織である「日本舞踊競技連盟」が発足し、翌年1951年には日本舞踏競技連盟が初めて主催する競技会「第一回全日本単科選手権」が開催されました。

プロ組織の発足やそれに伴う競技会の開催などからもわかる通り、コミュニケーションを楽しむための「社交」としての側面だけでなく、技術を競い合う競技志向も、このころから誕生してきました。1955年には、英国から当時の現役の全英チャンピオンであったレン・スクリプナー&ネリー・ダガン組が招聘され、生のデモンストレーションを披露したり日本人にダンスをレクチャーしたりなどの動きも見られました。

しかしながら日本における1980年代ころまでの社交ダンスは、まだまだ「大人のたしなみ」といった雰囲気が色濃く残っていました。現在のように老若男女が競技として、あるいは趣味として楽しめる大衆的なものではなかったのです。

1980年代以降、日本はバブル期に突入。全国各地にダンスホールやキャバレーといった大人のための社交場が立ち並び、そういった場所で社交ダンスは連日連夜踊られていたのです。

つまり、このころの社交ダンスは「お金をたくさん使ってくれる富裕層」の力によって流行していったと言っても過言ではないのです。

ではその後、どうやって社交ダンスが大衆に広まっていったのか。それはメディアの力によるものが大きかったのです。

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映画・テレビの力で競技人口が爆発的に増加

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