「親ガチャ」「毒親」という言葉が共感を集めている。自分では選べない家庭環境に、やるせなさや憤りを感じている人が多く存在するのだ。
ユング心理学においても「親の心理的課題は子どもに継承される」と語られているように、親子関係は人間の心理に多大な影響を及ぼす。では、生まれながらにして理不尽な運命を背負わされた人々は、いかにして課題を克服し、生きていけばいいのか? 臨床心理士の山根久美子氏が解説する。
※本稿は、山根久美子著『自分を再生させるためのユング心理学入門』(日本実業出版社)から一部を抜粋し、編集したものです。
親子の絆は理不尽な運命
親を選べないことを、どのおもちゃが出てくるかは運次第の「ガチャガチャ」という自動販売機になぞらえて親ガチャと形容する言葉がはやったが、どんな親のもとに生まれるかは、まさに運次第だなと感じる。
心理療法でクライエントさんたちの親の話を聞いていると、本当に千差万別だなと思う。クライエントさんとの相性や関係性もあるので、他の兄弟姉妹にとってはそこまでではなくとも、その人にとってはひどい親という場合もあって複雑である。
いずれにしても、親というのは選ぶことができないという意味において、その人にとって真に理不尽な運命であるといえるだろう。
(以前)ユング心理学は「失敗し、負けたときのための心理学」」と書いた。人生は成功したまま、勝ったままではいられず、失敗し、負けて立ち止まらなければならなくなるときが来るとも書いた。
でもそれは結局、強者の理屈だと言われてしまうかもしれない。しょせん一度でも成功したり勝った経験のある恵まれた人の考え方だ、と。なぜなら、世に中には、「親ガチャ」で外れ、生まれたときから不遇な人生を歩まざるをえない人が少なからずいるからである。
そもそものスタートラインがまるで違うのに、「たとえ不幸な育ちでも、努力して成功した人はたくさんいる」とか「勝てないのは自分のせいだ」などと、彼らに自己責任論を押し付けるのは、あまりに無神経だと感じる。
そういう人たちには、「あなたに責任はないよ」と言いたい。そして彼らの過酷な運命を社会の側も一緒に引き受けていかなければならない。ユング心理学やユング派の心理療法は、社会の側から彼らに差し伸べられる手の一つとしての役割を果たさなければならないと思う。
「親ガチャ」という言葉がはやる前にも、似たような毒親という言葉が耳目を集めた。毒親というのは、一般的に「子どもの毒になるような親」、つまり「子どもを支配し、子どもの人生に害を及ぼす親」を指す。
親は子どもを愛し、守り、導いてくれる──、それがさまざまなメディアで繰り返し描かれてきた「ふつう」の親像であるが、実は「ふつう」などではなく、あくまで「理想」でしかない。現実はそんなに美しくはなく、残念ながら、子どもを愛することも、守ることも、導くこともできない親はいる。
日本は、家族を重視する文化であるし、家族においては、年長者である親が正しく、敬われるべきであるという社会通念がある。
しかし、親だからといって、必ずしも正しいわけでも、敬うに足る存在でもないことを多くの人が意識し、声をあげられるようになってきたことを親ガチャや毒親という言葉の流行が示しているように思う。
さらにいえば、親ガチャや毒親という言葉は、「なぜ自分の親はふつうではないのか」、「なぜ自分はふつうと違うのか」という答えのない問いに対する悲しみ、苦しみ、怒りの表現であると感じられる。
親がやり残した課題が子どもに継承されていく
ユングは、親が自らの人生において取り組んでこなかった、もしくはやり残した心理的課題が子どもに継承されていく、という世代間連鎖に早くから気がついていた。
場合によっては、何世代にもわたって取り組まれずに放置されてきた心理的課題もあり、それが一族の業のような形になっていることもある。
人生は長いようで短くもあり、人間にはそれぞれ限界がある。その人が生きている間に向き合うことが難しい心理的課題もあるのだ。
例えば、私が留学中にスイスでお会いしていたクライエントさんの中には、30代前半の東欧出身の方が何人かいた。彼らの多くが、他人を信じることができないという課題を抱えていた。
自分個人の人生において誰かに裏切られた経験があるわけでもないのに、人と深い信頼関係を築くことができず、孤独にさいなまれていた。
興味深いことに、彼らの親の話を聞いていくと、一様に、自分が生まれる以前の話を親から聞いたことがないという。彼らは1980年代後半の生まれなので、ちょうど彼らが生まれたすぐあとくらいに、東欧諸国は共産主義政権が崩壊し、民主化していった。
彼らの親は、民主化以前のことを一切語ることがなかったという。
「共産主義時代に親がどうしていたのか、自分はまったく知らない」──、これが彼らが私に共通して述べたことである。
そこで、東欧出身で、彼らの親世代のユング派分析家の友人に話を聞いてみたところ、「彼らの親は、共産主義政権時代のことを語らないのではなく、傷が深すぎて語ることができないのだろう」という答えが返ってきた。
この友人は、共産主義政権下で育ったのであるが、自らの体験について、「他人は誰も信用できなかった。家族でさえも。誰が秘密警察なのかわからないから。他人を信用してうかつに何かを言えば、不満分子や反体制派として摘発されかねない」と話してくれた。
この話を聞いて、私は自分が会っている東欧出身のクライエントさんたちについて、とても腑に落ちるものがあった。
私には、彼らはまさに、彼らの親が共産主義体制によって損なわれ、傷つけられた他人への信頼を心理的課題として継承し、それと取り組まざるを得ない状態に置かれているように思えたからである。
ユングは、1つの心理的課題の解消には3世代はかかるのではないかと述べている。
もしそうならば、親が取り組まなかった、もしくは取り組めなかった心理的課題は、親から子、そして子からまたその子、つまり孫の代まで引き継がれていくということになる。
そう考えると、とても理不尽なことに感じるかもしれない。親のつけを、どうして子どもや孫が支払わなければならないのだろうか。よりによって、どうして自分が親の業を背負わされるはめになったのだろうか。
その答えを、残念ながらユング心理学も私も持っていない。「どうしてなのか、わかりません」──そうとしか答えられない。
私にわかるのは、ただ、それがその人にとって取り組まざるを得ない心理的課題であること、そして、それと自分なりに真摯に取り組むことで、より生きやすくなるであろう、ということだけである。
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親のせいにしなくなったとき自分の「真の人生」が始まる