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あらゆる関係はS-Mである

2008年12月25日 公開

斎藤 環 (精神科医)

「ドSキャラの系譜」

 先日、さる老舗のアニメ雑誌の取材を受けた。テーマは「ドSキャラ」。最近、漫画・アニメ作品ではサディスティックな性癖をもつキャラの人気が高いのだという。その理由を精神分析的に検討してほしい、という依頼である。

 タテマエ上は中高生が読む前提の雑誌であることを考えるなら、これほどあからさまに性的嗜好をテーマとした特集が組まれるのは、ちょっと驚くべきことだ。おそらくこの状況は、「萌え」という言葉の一般化と無関係ではないだろう。

 いかなる性癖であれ「~萌え」という言葉に変換された時点で、あっさりと解毒されてしまうからだ。まったく同じ意味であっても、「私、マゾなんです」と いう言い回しよりは、「ドSキャラ萌えです」という言い方のほうが「ネタ」的な印象を与える。つまり虚構性が高くなる。なぜならこの言い回しは、「私は 『サディスト好き』というキャラを演じています」ということをも意味するからだ。

 ちなみに漫画・アニメの歴史にあって「ドSキャラ」はつねに一定の人気があった。念のため補足しておくなら、たんに冷淡であるとか厳格であるだけでは 「ドSキャラ」呼ばわりはされない。つねに必要以上に嗜虐的であることが必須条件だ。古くは宮﨑駿の作品『天空の城ラピュタ』(徳間書店/DVDの発売元 はブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント)における敵役・ムスカがいる。無数の兵隊が海に落下するさまを見て「人がゴミのようだ!」と叫ぶ有名なセ リフがあるが、幼女のおさげを銃弾で吹き飛ばすような性癖がこのキャラの本質である。20年以上前の作品ながら、この極悪キャラの人気はいまだに高く、 ネット上にはファンサイトまであるほどだ。

 私の知るかぎり、もっともシャレにならないシリアスなサディストは、萩尾望都『残酷な神が支配する』(小学館文庫)におけるグレッグである。表向きは金 持ちの英国紳士、しかしそのウラの顔は再婚相手の息子に性的虐待を加えることを無上の喜びと感ずる異常な男だ。その行為もさることながら、目的を遂げるた めには無垢な少年を精神的にとことん追い詰めることも厭わない鬼畜ぶりには胸が悪くなるようで、とてもキャラ萌えの余地はない……かに見える。しかし強者 の女性ファンのなかには案の定「グレッグ萌え」がいるらしく、「ドSキャラ」人気の奥深さを教えてくれる。

 これらにくらべれば昨今の「ドSキャラ」は、はるかに演技性が高い。『ギャグマンガ日和』(増田こうすけ、集英社)における曽良(そう、芭蕉の弟子のあ の曽良だ)、『魔人探偵脳噛ネウロ』(松井優征、集英社)におけるネウロ、『銀魂』(空知英秋、集英社)の沖田総悟、『黒執事』(枢やな、スクウェア・エ ニックス)のセバスチャン、『まりあ†ほりっく』(遠藤海成、メディアファクトリー)における祇堂鞠也など、いずれもその性癖はシリアスなものというより は、ギャグのネタでしかない。その意味では、ちょっと前に一世を風靡した「ツンデレ」キャラにも通ずるところがある。

フィクションにおける「関係性の快楽」

 「ドSキャラ」人気の基本を支える要因は単純なものではない。もっとも重要な背景としては「やおい・BLカルチャー」を考えておくべきだろう。これは、 好みの男性キャラどうしをゲイのカップルに見立ててつくられるファンタジーの1ジャンルを指している。くわしい解説は本題からは外れるので割愛するが、や おいやBLにおいてことのほか重視されるのが「攻め×受け」のカップリングである。

 これは要するに、ゲイ・カップルにおける「(挿入)する側」と「される側」の区分を意味しているが、この関係性はほぼそのままSとMの関係に相当すると いってよい。もちろん「攻め」がつねにSキャラというほど事態は単純ではないが、SMに近似できるようなキャラの落差こそが、やおい・BLカルチャーの根 底にある。そもそもやおい文化の偉大な功績は、人間関係を突き詰めればSとMの関係に行き着くほかはない、というフロイトの見出した真理を再発見させてく れた点にあるのだ。

 その意味で「ドSキャラ」萌えは、女子にとってはやおい文化への導入としても重要な意味をもつだろう。「ツンデレ」萌えは男子おたくに、虚構における関 係性の快楽を教えた。それとまさに同じような機能を、「ドSキャラ」は担うことになる。そう、嗜虐性の餌食となるMキャラの存在なくして、「ドSキャラ」 萌えは成立しない。それゆえにこの感情が、つねにSとMという関係性を前提としていることは明らかだ。そしてくりかえすが、「SとM」は、ありとあらゆる 人間関係に潜在する「傾き」に対して与えられた名前にほかならないのである。

 ところで私は、数年前からこのような意味での「関係性」に注目してきた。

 思想や世界観だけで虚構を支えることは、しだいに不可能になりつつある。それらの要素は、つまるところ、「この物語を所有したい」という欲望に奉仕する だけだ。われわれが物語の「テーマ」を急いで理解しようとする場合、そこで作用しているのはこうした所有欲にほかならない。

 しかし重要なのはむしろ、物語が「所有に抵抗する」ということである。テーマや思想に還元されない「ノイズ」こそが物語の真髄なのであって、これがある がゆえに物語は独自の領域性を主張できるのだ。私はその最大のものが「関係性」ではないかと考えている。その詳細については、来春に新潮社から出版が予定 されている単行本で再論することになるだろう。

 閑話休題。いまやフィクションにおいて、関係性こそが最重要なキーワードとして浮上しつつあることはまぎれもない事実である。これは先ほどもふれた「ドSキャラ」人気などからもうかがいしれる。どういうことだろうか。

 そもそも「キャラ」とは何だろうか。それは必ずしも、人格を抽象変換しデフォルメを加えたもの、を意味するばかりではない。「キャラ」は何よりもまず、「関係性」が畳み込まれた性格設定を意味している。

 たとえばあなたが「Sキャラ」と認定されている人物と実際に会ったとしたら、どのようにふるまうだろうか。ほとんどの人は「空気を読んで」、つまり、相 手のキャラを傷つけまいとして、やや「M」寄りにふるまうのではないだろうか。キャラが関係性を決定づけるのは、まさにそうした瞬間である。そこにあるの は支配-服従というだけでは表現し尽くしがたい、もう1つの関係性の軸にほかならない。

 サブカルを論ずる際の常であるとはいえ、前提の説明だけでずいぶん紙幅を費やしてしまった。今回は、1つの漫画作品を通じて、虚構における関係性の意味を検討してみよう。

『サインはV!』から『少女ファイト』へ

 取り上げるのは日本橋ヨヲコ『少女ファイト』(講談社)。バレー漫画である。

 バレー漫画といえば女子のスポ根もののはしりとして浦野千賀子『アタックNo.1』(集英社)や同時期に人気のあった神保史郎、望月あきら『サインは V!』(講談社)などがまず思い浮かぶ。両作品はアニメ化やドラマ化を経て人気を博し、事実上バレー漫画の代名詞的存在になった。おそらくバレー漫画とし て一般に認知されているのは、ほぼこの二大作品のみであろう。

 もちろんそのあとにも『アタッカーYOU』(小泉志津男・原案、牧村ジュン、講談社)や『ヨリが跳ぶ』(ヒラマツ・ミノル、講談社)といった人気作品があるにはあるが、いずれも知名度は決して高くない。

 『少女ファイト』も人気作ではあるが、必ずしも漫画ファン以外にまで有名な作品とはいえない。にもかかわらず私が本作を推すのは、マニアックな関心からではなくて、単純に作品としてすばらしいためである。以下、内容をごく簡単に紹介する。

 大好きだった姉の交通事故死というトラウマを抱えた天才バレーボール選手・大石練(多い試練)は、その過剰な才能ゆえにかつて「狂犬」と呼ばれ、仲間た ちからも距離を置かれてしまう。しかしあるアクシデントをきっかけに、挫折経験者ばかりが集う黒曜谷高校バレー部に入部、そこで出会った仲間たちとの関係 において、その才能を徐々に開花させていく。

 あまりにも多彩な登場人物と、入り組んだ相関関係ゆえに、これ以上詳しい紹介は難しい。日本橋はもともと、うっとうしいほど熱量の高い作品を描く作家と して知られていた。正直、本作以前の作品は、その熱量に作画が追いついていない印象があって私はそれほど評価していない。しかし、この作品でついに、日本 橋はその熱量を容れても歪むことのないスタイルを手に入れ、大きく「化けた」のである。

 本作は作者自身がバレー経験をもち、みずからの漫画家としての技術的な成熟を待って、まさに満を持して描かれた作品である。本作が雑誌『TVBros』 (東京ニュース通信社)誌上で「2008ブロスコミックアワード」を受賞したのは当然といえば当然である。ちなみに私の知人(バレー指導経験者。全国大会 で優勝4回の実績がある)も本作の大ファンで、テクニカルな描写については、ほぼ折り紙付きと考えてよいようだ。

 作者は基本的に気配りの人であり、それゆえに気配りのスポーツであるバレーをテーマにしたところもあるようだが、もちろん過去作品へのオマージュも欠かさない。

 とりわけ『サインはV!』との、ほぼ確信犯的な類似性は明らかだ。

 物語の導入部分だけでも、偶然とは思えないほど多くの共通点がある。バレー選手には不向きな低身長ながら、それを補ってあまりある天賦の才能に恵まれたヒロイン(朝丘ユミ、大石練)という設定がまず目につくだろう。

 このほかにも、ヒロインがバレー絡みで姉(朝丘ミヨ、大石真理)を亡くしており、それ以来バレーに対してアンビバレントな感情を抱いていること、姉の死 の原因をつくったとおぼしき監督(牧圭介、陣内笛子)によってスカウトされ入団(入部)すること、プライドの高いライバル(椿麻理、伊丹志乃)との関係 や、不幸な出自を負った混血の美少女との絆(ジュン・サンダース、唯隆子)などがあげられるだろう(唯隆子は混血と明言されてはいないが、ジュン・サン ダースを連想させる「浅黒い肌」を与えられている)。

 くりかえすが、ここにあるのは明らかに本歌取りないし先行作品へのオマージュの姿勢であって、問題はあくまでも、ここから先の展開なのである。読みくら べてみればすぐわかるが、二作品はこれほどの基本設定の類似にもかかわらず、まったく読後の印象が異なっている。

 たとえば『サインはV!』の大きな魅力の1つに「稲妻落とし」や「魔のX攻撃」などといった現実離れした「魔球」の存在がある。しかし『少女ファイト』 には、この手の魔球はいっさい登場しない。もちろん経験者が読めば、現実にはありえないような描写も散見されはするらしいが、それはおおむね漫画的リアリ ズムとして許容範囲のものであるようだ。

 しかし、なんといっても最大の違いは、『少女ファイト』に「スポ根」がほとんど描かれていないという点だろう。かつてバレー漫画といえば、少女向けのス ポ根ジャンルの代表のようなものだった。「魔球」のたぐいは、まさに『巨人の星』がそうであったように、常人離れした努力と根性の象徴にほかならなかっ た。しかし、そのいずれもが、本作には見当たらないのである。

 一般にスポ根が衰退したのは、80年代に人気を集めたあだち充『タッチ』(小学館)の登場以降とされる。もちろん、『タッチ』の軽妙さや恋愛要素などは 本作にもしっかりと受け継がれてはいる。しかし本作には、80年代的なシニシズムやはぐらかしの要素はほとんど見られない。誤解を恐れずにいえば、ここに は「スポ根」とは別の意味での、きわめて勁い精神性が存在する。しかしそれは、もはや「根性」のかたちをしていない。それはまず何よりも「他者への配慮」 というかたちで現れる。

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著者紹介

斎藤 環(さいとう たまき)

精神科医

筆者略歴:1961年岩手県生まれ。筑波大学医学専門学群卒業。医学博士。現在、爽風会佐々木病院精神科診療部長。専門は思春期、青年期の精神病理、および病跡学。著書に『文脈病』(青土社)『社会的ひきこもり』(PHP研究所)『生き延びるためのラカン』(バジリコ)『文学の断層』(朝日新聞出版)など多数。

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