ビジネスパーソンのあいだで「お茶」を飲むだけでなく、学ぶ人が増えている。「なかでも紅茶は世界共通の歴史、アート、マナーなどが身につく"とっておきの教養"」と述べるのは、25年間にわたる「紅茶留学」を経て、日本有数のティースペシャリストとして活躍する藤枝理子氏。
お茶の歴史と文化が学べる『仕事と人生に効く教養としての紅茶』(PHP研究所)も話題の藤枝氏が、イギリスとアメリカでは紅茶に対する価値観がどう違うのか、国ごとのマナーや飲み方について述べる。
「紅茶に塩」の何がいけなかったか
紅茶の国イギリスが驚きの反応を見せた「紅茶に塩論争」。
紅茶に塩? という意外性から、このニュースに関心を持ったかたも多いのではないでしょうか。
どのような構図なのかを簡潔に説明すると、アメリカの化学者である大学教授が提唱した「紅茶に塩を加えることで完璧な一杯になる!」という説にイギリスが猛反発。両政府を巻き込む大論争に発展したというものです。
米ブリンマー大学のミシェル・フランクル教授は、過去何百もの研究論文と古文書を分析し、化学者としての視点から「美味しい紅茶の淹れかた」を発見、著書『Steeped: The Chemistry of Tea』で発表しました。
そこで物議を醸すことになったのが「紅茶にひとつまみの塩を入れる」という点。紅茶にほんの少し塩を加えることで、塩に含まれるナトリウムイオンが紅茶の苦味成分となるメカニズムを阻害し、苦味を感じさせないように働くというものです。
この説が発表されるやいなや、イギリス国民は「アメリカ人は本当の紅茶の味を知らない!」「とんでもない、塩味の紅茶なんてありえない!」と敏感に反応。
それに対しロンドンにあるアメリカ大使館は「フランクル教授の主張によって、英国との特別な関係が窮地に陥っている」と表明。
「イギリスの国民飲料である紅茶に塩を加えるという考えは、アメリカの公式見解ではないことを保証します」と即座に釈明をしたのです。
ただ、問題はこれだけにとどまりませんでした。その声明にはさらなる物議を醸すこんな一文が付け加えられていたからです。
「アメリカ大使館は今後も正しい方法で紅茶を淹れ続けます......、電子レンジを使って」
これには、イギリス内閣府も黙認できなかった様子。「紅茶は、ケトルを使わないと淹れることはできません!」と反論。ワシントンにあるイギリス大使館まで巻き込み、あっという間に一大論争に発展。「第2の紅茶戦争勃発か?」などとイギリスらしいブラックジョークまで飛び出す始末です。
たかが紅茶ごときで...、と思うべからず。一杯の紅茶は世界史にも大きな影響を与え、世界中を揺るがす事件や戦争の引き金にもなってきたという過去があるのです。
「ボストン茶会事件」だけでない! 紅茶が変えた世界史
特にアメリカとイギリスの間には「ボストン茶会事件」という因縁の対決があったことは誰もが知るところです。「世界史で習った気がする......」という方のためにかんたんに解説しましょう。
1773年、当時イギリスの植民地だったボストンで、英国船に積まれていた茶箱342個すべてを海に投げ捨てるという大事件が発生。ボストン港は巨大なティーポットと化し、世界一有名なティーパーティーは、その後の独立戦争へと発展しました。
これを機に、アメリカで紅茶のボイコット運動が加熱し、コーヒー派が増えたともいわれています。
また、茶の取引がきっかけとなりイギリスと中国の間で起こった「アヘン戦争」によって租借地となった香港は、1997年に返還されたものの、今もなお社会に大きな影響を与えています。
そして、19世紀から20世紀にかけてのイギリスやアメリカでは、紅茶やアフタヌーンティーが、女性の自立と解放、フェミニズムにも重要な役割を発揮しました。
女性が一人で自由に出歩いたり発言することが許されず、社会的な束縛があった時代、女性たちはティーパーティーの名のもとに集まり、紅茶を片手に女性に対する不当な扱いについて語り合うようになっていくのです。
そんな女性たちの独立心は大きなムーブメントとなり、女性解放や参政権運動へとつながり、社会を変え歴史を動かしたのです。
このように、紅茶というのは単なる嗜好品の域には留まらず、その背景には国ごとに培われてきた文化、宗教、交易の歴史から、植民地抗争や独立戦争、民族や奴隷問題、政治経済情勢まで、グローバルな知見が詰まっています。
それゆえイギリスで活躍するエグゼクティブにとって紅茶の知識を備えることは必須教養。ビジネスシーンにおいて紅茶は共通の話題であり、パートナーとして相応しい教養を備えているかどうかを見極める判断基準にもなっているのです。
日本でも昨今の若い世代のアルコール離れやパンデミックの影響から、接待や飲みニュケーションの場が夜から昼へと移行し、アルコールの力に頼らずにホテルのラウンジでスマートに行う会合が増えています。その結果、知的なジェントルマン風の紅茶男子やヌン活男子が注目を集めています。
お茶は異文化を知るのに格好の手段になる
そして、紅茶は世界共通のコミュニケーションツールでもあります。
今回の「紅茶に塩論争」がここまで大きくなったのも、イギリス人が紅茶の知識だけではなく、美味しい紅茶に対しての主張やこだわりを一人一人が持ち合わせていることも要因のひとつです。
たとえば「紅茶を飲む時にカップの中に入れるのは紅茶が先かミルクが先か?」という論争は、100年以上に渡って言い争いが続くイギリス人が大好きな議題です。
ミルクを先に入れるMIF派(Milk in first)は「ミルクの量が明確、よく混ざって美味しくなるうえ、茶渋もつきにくい」といいます。
対して後からいれるMIA派(Milk in after)は「先にミルクなんて入れたらミルク臭で紅茶本来の香りが台無しになる。紅茶は香りを楽しむ飲み物であって、まずはストレートで紅茶の香りを楽しむのが流儀」と反論し、両者一歩も譲りません。
ちなみに、今回の「紅茶に塩」論文の出版元である英国王立化学会(Royal Society of Chemistry)は、2003年に「化学的なアプローチから立証した完璧な紅茶の淹れかた」として、MIFのほうが美味しい紅茶になると結論づけています。
検証を行った結果、高温の紅茶の中に温度の低いミルクを入れると熱変性が生じやすいため、逆の順序で淹れたほうが風味は損なわれにくいとの答が出たと発表したのですが、そんなことお構いなし。この論争に終止符を打つ気は、さらさらないようです。
そのほか「ティーバッグが先かお湯が先か」「ティーカップのハンドルに指を通すか通さないか」など、階級社会のイギリスでは、その家々に伝わるマナーやルールがあり、自分の考えをしっかりと相手に伝えるスキルを鍛えています。
一見、どちらだって同じなのでは? と思うようなこの問題に関しても熱いディベートを繰り広げるほど、論争好きという面もあります。
日本人とイギリス人は同じ島国ということもあり、国民性に共通点が多く見られます。伝統やマナーを重んじるところも一緒。
そして、イギリス人にとって紅茶文化は日本の茶道と同じようなものです。「完璧な一碗は、抹茶に塩を入れて電子レンジでチンすればOK」といわれたら、伝統文化を理解していないと思うのも当然です。
実は、お茶というのは世界中に数多く存在する嗜好飲料の中で、最も消費されている飲みもの。地球上では日々40億杯以上のお茶が消費され、水の次に多く飲まれています。
お茶を飲むスタイルもそれこそ千差万別、中にはお茶に塩はあたりまえ、そこにバターや牛乳まで加えて飲む国もあります。それぞれの国に独自の慣習があり、それらの社会文化様式は尊重されるべきナショナル・アイデンティティというわけです。
皆さんも海外に行かれる際、あるいは海外の方とアフタヌーンティーを愉しむ際は、お相手の文化様式にも気にかけておくといいでしょう。
一度は飲みたい、世界の銘茶3選
紀元前に中国で生まれた茶は、ティーロード(お茶の道)と呼ばれる陸路や海路を経て、世界各地へ伝えられました。世界中に広まったお茶は、長い歴史の中で、その土地の気候風土、生活様式、宗教にあわせた喫茶法が生まれ、文化として育まれていきました。最後に世界の珍茶文化をご紹介します。
・チベットの塩バター茶
チベットの茶文化は古く、7世紀には「茶馬交易」を通じて中国からお茶が渡っていました。そんなチベットで遊牧民から広まったのが、非常に珍しい「塩バターミルクティー」。
中国茶を削って煮出し、そこにヤギのミルクとバター・岩塩を入れてよく混ぜてお茶を淹れます。恐る恐る飲んでみると、お茶というよりもスープに近い味で、違和感はまったくありません。
この塩バター茶はチベットだけではなく、モンゴルやブータンなどユーラシア大陸の高原エリアにとっては重要な食文化。高地の厳しい気候の中で、身体をあたため、栄養分を補給するために、切り離すことのできない存在なのです。
・モロッコの激苦激甘ミントティー
モロッコでは、ガンパウダーという火薬のような形状をした緑茶にフレッシュミントを枝ごと投入し、塊の砂糖と一緒に煮出してお茶を淹れます。ミントも砂糖もだんだんと量が増えていき、スッキリとした飲み心地のミントティーというよりも激苦激甘茶。
その裏には飲酒が禁じられているムスリムにとって、お茶はお酒代わりという宗教上の理由もあります。刺激を求めるあまりミントだけではなく、タイム・セージ・サフラン・松の実...とレベルアップしていくそうです。
・香港の紅茶×コーヒー=鴛鴦茶
香港で飲まれているのが、紅茶とコーヒーを混ぜあわせた新感覚ドリンク。鴛鴦とはおしどりのこと。東洋医学において、茶は冷、コーヒーは温、相反するふたつを書けた合わせた禁断飲料ともいえる存在です。
淹れ方も何種類かあり、紅茶とコーヒーの抽出液を混ぜ合わせる方法や、紅茶の茶葉とコーヒーの粉を混ぜたものを抽出する方法、ホットの熱鴛鴦、アイス凍鴛鴦などなど、バリエーションも豊富。
日本でもコメダ珈琲のメニューに登場したこともあり、気軽に作ることもできるので、興味があればチャレンジしてみてください。
このように、世界には様々な茶文化が存在し、中には驚くようなレシピも存在します。
今回、一夜にして話題の人となったフランクル教授は「外交問題を引き起こすつもりはなかった。化学がニュースになってくれると嬉しい」と述べています
国レベルのジョークを言い合えるのも平和の証。これを機に、お茶の世界でも様々な違いと向き合い、摩擦を恐れずに異文化コミュニケーションを広げることで、茶の輪が広がるのではないでしょうか。