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極端な思考、ミスへの恐怖...若者が抱える“職場の困難”のリアル

石井光太(作家)

2024年03月21日 公開

極端な思考、ミスへの恐怖...若者が抱える“職場の困難”のリアル

人手不足と言われる現代日本だが、新入社員の離職率はなかなか下がらない。「若者のコミュニケーション能力不足」などと言われて久しいが、「突然、出社しなくなる」「退職代行サービスを使う」など、その問題の中身は変化しているようだ。

本記事では、若者の就労支援を行う「地域若者サポートステーション」の取材から、ノンフィクション作家の石井光太氏が、「現代の若者の国語力」に迫る。

 

なぜ最近の新入社員は「いきなり出社しなくなる」?

職場における中高年と若者層のコミュニケーションの分断が叫ばれて久しい。ベテラン社員の国語力の欠如の問題について叫ばれる場合もあるが、逆に「若者の国語力のなさ」がすれ違いを生んでいることもある。

「若い人たちとの会話が成り立たない」
「どれだけ丁寧に言っても信頼関係が構築できない」
「うまく話し合えていると思っていたら理解してもらえていなかった」......。

ベテラン社員がどれだけ手を差し伸べても、こうした若者は適切なコミュニケーションを取ることなく会社を去っていく。

働き手不足の中、多くの企業が若者の離職を食い止めようと様々な対策を打っているが、なかなか成果は見えない。2020年の厚生労働省の調べでは、入社3年目までに3人に1人が離職しており、大学卒の離職率が32.3%、短大卒が42.6%、高卒が37%、中卒が52.9%となっている。

国語力だけが原因ではないにせよ、退職の要因の一部に世代間の意思疎通のすれ違いがあるのは事実だろう。それは次のようなベテラン社員の声が表している。

「若い子は何を考えているかわからない。仕事について聞いても、『普通に大丈夫です』とか言うんだけど、気が付いたら全然違うことしていて、慌てて懇切丁寧に手取り足取りサポートしていたら、なんか逆にそれがショックみたいで、いきなり出社しなくなる。ぜんぜんよくわからないんです」

もっとも、こうした若者は「自分は会社組織の犠牲者なのだ」と考えている。ここにも大きなすれ違いがある。話が通じない若者たちの思考回路は、どのようになっているのか。会社を辞めた若者たちが集う就労支援の現場で考えてみることにした。

 

「ほとんど」「みんな」「かならず」と言った言葉で決めつけがち

大阪府豊中市の服部天神駅から徒歩で15分ほどのところに、青少年交流文化館いぶきがある。若者たちの居場所として作られた建物だ。この3階に一般社団法人「キャリアブリッジ」のオフィスが入っている。

同法人は現在26人のスタッフを抱え、生活困窮者支援、ひきこもり支援などを手掛けており、代表的な事業の一つとして地域若者サポートステーション(以下、「サポステ」)を運営している。

地域若者サポートステーションとは、厚労省が主体となって若者の一般就労を支援し、自立へつなげるための事業だ。全国に177カ所あり、同法人は大阪府内のサポステの一つを委託されて行っているのだ。代表理事の白砂明子氏は言う。

「うちのサポステに来る相談者はネット検索で見つけてくる人もいますが、ハローワークから紹介されてくる人もいます。ハローワークの担当者が相談に乗っている中で、この人は今のままのコミュニケーション能力や社会経験では就業が困難かなと感じた場合は、サポステを紹介することがあるんです。それでうちにやってきてプログラムを受けていただく方も多いです」

サポステは、障害者の就労支援の事業所とは異なり、あくまで一般就労につなげるための事業だ。そのため、何度か会社で働いてみたけど、そこでうまくいかずに辞めてしまったとか、10年以上にわたって転職と再就職をくり返しているとか、長年ニート状態だったといった人たちが対象となる。白砂氏はつづける。

「相談者の多くが、前職を辞めた理由として"人間関係"を挙げます。上司や同僚とうまくいかなかったとか、理解してもらえなかったといったことです。ただ、じっくりと聞いてみると、相談者の方に相手の話を理解する力や、自己表現をする力が充分でないためにそうなっているのではないかと感じることもしばしばあります。

指示されたことを守るとか、同僚と信頼関係を作るとか、相手の立場に立って先回りした対応をするといった想像力や先読みする力が身についていない方が多いように思います」

サポステでは、相談者との面談の際に、専門知識を持ったスタッフが前職を辞めた理由や、これまで就職活動をしてこなかった理由を尋ねることがある。この時、相談者の中には「会社がブラック企業だった」「パワハラ上司だった」「職場にはいじめがあるから」などと答える人が少なくない。

スタッフはその言葉を鵜呑みにするのではなく、もう少し踏み込んで事情を確かめてみる。すると、次のような回答をする人が一定数いるという。

「今はほとんどの会社がブラックじゃないですか」
「上司ってみんなパワハラしますよね」
「職場にはかならずいじめってありますから」

根拠もないのに、「ほとんど」「みんな」「かならず」と言った言葉で決めつけてしまうのだ。なぜ、そうした思考になるのだろう。

 

SNSやネットによって被害妄想が膨らんでいく

私の目から見ると、サポステに来るこうした一部の若者たちは、「国語力」(編集部注)がないままに大人になってしまったのではないかと感じる。

国語力のある人は、自分の身に起きたことが何だったのかを客観的に考察し、その事象に対して何をすべきかを事細かに考えられる。だから人に理解してもらえるし、自らの力で生きやすい状況を作ることができる。

しかし、国語力のない人は言語によって自己分析できないので、つまずくと「ブラック」「パワハラ」「いじめ」といった聞きかじった用語を持ち出してネット検索をかける。

すると、画面には関連した記事だけがずらっと並ぶため、「会社はブラックなものなんだ」「上司はパワハラをするものなんだ」と偏った理解になり、自分の非を棚に上げて「日本の会社がブラックだから僕は追いつめられたんだ」とか「私は上司のパワハラの犠牲者なんだ」と結論付けるのだ。

また、こういう人たちはSNSによって安易に自らを正当化しがちだ。彼らはネットで得た知識だけでは不安なので、SNSという同質性の高いツールで自分を理解してくれる人を募ろうとする。

SNSで「上司にパワハラされた」「職場いじめに遭っている」と発信すれば、フォロワーから〈いいね〉のマークと共に、同情の声や一緒に憤慨する声が寄せられる。

フォロワーも現状を検証しないまま、タイムラインに流れてきた情報に反射的に便乗しているだけだ。それなのに、発信者は自己否定されない安心感を覚え、自分は正しかったのだと信じ、被害妄想を膨らましていく。

このような行動パターンは、国語力のない人によく見られるものだ。職場でも地域コミュニティーの中でも、彼らはネット上の偏った言葉を真に受け、それ以外のことをすべて嘘や陰謀だと切り捨てる。これでは周りの人たちがいくら対話の意思を持っていても、成り立つわけがない。

ただし、それは決して彼ら個人のせいではない。白砂氏は、現代の若者のコミュニケーションについて、次のように言う。

「コミュニケーションが苦手な若者が増加していることは事実です。社会の変化に対して、若者のコミュニケーションや人間関係力を育てる環境が全く追いついていない......ただ、そうなった背景には、若い人たちの子どもの時代の経験、学校で受けてきた教育、時代の変化などいろんなことがあります。それらによってコミュニケーションが上手にできなくなっているのです」

彼ら自身の落ち度を責めるのではなく、その背景や環境要因を考え、改善することができれば、こうした若者と職場のミスマッチを防ぐことができる。サポステは、そうした若者のコミュニケーションを本質的に解決する取り組みの一部なのだ。

 

必要なのは「主体性を取り戻す」こと

何が、若者たちの国語力を殺したのか。それを考えるには、若い人たちの学生時代に目を向ける必要があるという。

キャリアブリッジのスタッフに三平真理氏がいる。彼女は臨床心理士という立場で、スクールカウンセラーや、定時制高校での居場所スタッフを務めてきた。
三平氏は現在の子どもを取り巻く問題を次のように語る。

「学校の教育現場を見ていて感じるのは、主体性を育てるための教育に、手がまわらないほど忙しい、ということです。国はアクティブラーニングなどによって主体的な学びを推奨しているのですが、現場レベルでは先生方は目先の仕事に追われていて、それどころではない状況に見えます。主体性を育てるためのゆとりや環境が学校に存在しないんです」

混迷化する社会の中で必要とされているのは、答えの出ない問いに対して向き合い、自分なりの目標を設定し、道なき道を切り開いていく能力だ。だが、主要科目では相変わらず決まった正解を導き出す教育がなされているだけでなく、その他の教科においても同様のことが見られるという。

たとえば、美術の授業で主体性や創造性を伸ばそうとすれば、教師が子どもたちの独創性を認め、伸ばしていくことが重要だ。しかし画用紙に少しでも余白があれば、「ここにまで白い部分があるので、何でもいいから描いて埋めなさい」と注意する教師もいるという。

それはなぜか。私は理由を聞いて驚いた。教室の壁に子どもたちの絵を展示した時、1人だけ余白が多いと、管理職や親から「なんでこの子だけ余白が多いのか」と注意されることを教師が恐れているからではないかという。これでは主体性を育む教育など望むべくもない。

さらに近年は、親や教師がこぞって子どもたちを管理下に置き、自分たちが敷いたレールを歩かせようとする傾向が強まっている。

保育園や幼稚園の頃から習い事でスケジュールを埋め、遊ぶ友達、観る映画、通う塾、部活動など何でも親が決めていく。そしてもしわが子が少しでも失敗しそうになれば、慌てて介入して代わりに事態を収める。

これでは子どもたちは大人の顔色を見ながら、求められた成果を出すだけに長けるようになる。自分で物事を決め、自分の足で進み、自分の言葉で状況を打開するといった力は養われない。そうなれば、学業を終えて社会に出たところで、本当の意味で独り立ちするのが難しくなるのは当然だ。三平氏は言う。

「若い子を見てて感じるのは、0か100かの極端な思考に陥っていて、些細なことで立ち直れなくなることです。たとえば、ちょっとしたミスをしたとか、ちょっと注意されただけで、『自分はダメな人間なんだ』とショックを受けて、学校や会社に来られなくなってしまうことがあります。

こうなる子は、失敗を経験させてもらえなかったり、大人の評価だけを気にして生きてきたりしてきた子に多いタイプです。たくさんの失敗を経験していれば、失敗にもいろんなレベルがあることがわかるし、それを乗り越える方法も考えられます。

けど、それを学ばせてもらえず、親の期待に応えられれば成功で、答えられなければ失敗という二極化した価値観で育てば、1度の失敗に立ち直れないほどのショックを受けても仕方がないでしょう」

 

「ミスを過剰に恐れる若者」と「育てる余裕のない企業」

若者たちが非常に過敏であり、打たれ弱いという指摘は方々でなされている。上司が少し注意したらショックを受けて出社しなくなった、客からのクレームを真に受けて心を病む、後輩より成績が劣ったことで他部署への異動を訴える......。こうした心の弱さが幼少期からの経験と深くかかわっているという指摘は一理ある。

今の子どもたちは自由に何かをさせてもらっているというより、大人たちから過剰なほど守られて育ってきた。やるべきことを逐一指示され、いろんな大人におぜん立てされ、「すごいね」「がんばってるね」と言われてきた。

またその反面、大人が介入したり軌道修正を促すことが重要な場面で放置されたままだったり、必要以上に厳しい親の管理下に置かれる事例などもある。        

おそらくこれは昭和の時代にあった悪い意味での放任主義や厳格なしつけの反動として起きたことだろう。しかしそれが行き過ぎれば、子どもたちは何かを選択する、自らの失敗を分析する、困難を乗り越えることで成長するといった経験が奪われてしまう。

彼らの中にあるのは、大人が与えてくれたことをこなせるか、そうでないかだけなのだ。こういう子どもたちが成長した時、「オール・オア・ナッシング」の考え方になるのは当然だろう。

もし自分の考えでやるべきことを決め、失敗を自己責任と割り切って乗り越えてきた経験があれば、社会に出た後に多少のミスをしたところで、「このミスはこの程度だからこうやって乗り越えればいい」と切り替えることができる。

だが、オール・オア・ナッシングの若者たちは、些細なミスをしたり、上司にちょっと注意されたりしただけで、人格否定されたような気になって「人生終わった」と絶望し、もはや自分の居場所はどこにもないと考え、職場から逃げるか、その人間関係を絶とうとするかする。三平氏は話す。

「こうしたことって、会社の些細な業務の中でも見られるんです。若い子たちはよく『これは無理』『俺、できない』と言って苦手なことを回避する傾向があります。会社の電話番を指示されたのに、電話に出ようとしないって話もよく聞きます。

もし何かが苦手ならやってみて慣れればいいのではと思うんですが、彼らはそうは考えない。なぜだと思いますか? おそらく、とてつもなくミスが怖いんです。

苦手なことをやってミスしてしまったら、自分はダメな人間だと思われると考えている。だから、苦手なことは極力避けるという姿勢になるように、私は感じています」

電話の例でいえば、若者たちは電話に慣れていないから出たがらないというより、苦手なことをしてミスすることを恐れているという。

電話口で想定外のことを聞かれ、即答できなかったり、とんちんかんな返事をしたりすれば、ダメ人間のレッテルを貼られると思って戦々恐々としているのだ。それくらい失敗するのが怖いのである。さらに三平氏はつづける。

「退職の時なんかも同じです。最近は、『退職代行』なんてビジネスがありますが、自分で会社へ行って辞めるということを伝えられない。そこで怒られるのではないかと考えると恐怖でしかないのです。

とはいえ、何万円か払って退職代行を使う人は会社から見たら、まだ良いでしょう。本当に深く傷ついてしまった人は、退職代行すら使わずに、いなくなってしまいますから」

若者たちの「ミスするのが怖い」「ダメ人間と思われたくない」「傷付きたくない」という気持ちが、社会人として必要な基本的なコミュニケーションを阻害しているのだ。こうしたことは、職場の中だけのことではなく、若者が恋愛をしなくなったり、旅行をしなくなったりすることとも通じるものがあるかもしれない。

とはいえ、昔もこうした若者は一定数いたはずだ。当時と今とでは何が違うのだろう。横で話を聞いていた代表理事の白砂氏は、次のように話した。

「昔も主体性がなかったり、ミスを過剰に恐れたりする人はいたはずです。でも、経済的な余裕があった時代では、企業がそういう人たちを長い時間をかけて育てていました。だから、初めは苦手でもだんだんとミスを細かく分けて考えられたり、対応方法を学んだりしていけた。

でも、今は企業も人を育てる余裕がなくなっていて、特に人を育てる余力のない企業ほど、即戦力を求める傾向にあります。まず非正規雇用で雇ってみて、使えないと見なせば解雇して別の人を雇う。

これではできない人は、いつまで経ってもできないままということが起きてしまう。これは社会全体の問題と言えるかもしれません」

即戦力を求める会社には、長い目で若い社員を育てようという余裕がない会社も多く、そうした企業に主体性がなく、打たれ弱い若者が入社すれば、ハードワークやマルチタスクに耐えられず、逃げるように会社を去ってしまうのは容易に想像できることだ。

では、こうした若者たちをどう育て、社会にもどしていけばよいのだろうか――。

 

(編集部注)
「国語力」の定義については、『Voice』2023年5月号「危機に瀕する日本人の国語力」の中で、石井氏は以下のように述べている。

2000年以降ほとんどの年度で、企業は入社試験の際に重視する要素として「コミュニケーション能力」を一位に挙げてきた。(中略)だが、コミュニケーションとは複数の能力の総合体であって、語彙や共感性はその一つでしかない。

文部科学省は、この総合的な能力を「国語力」と呼んでいる。まず、人は年齢相応の豊かな語彙を身につけなければならない。

その語彙をベースにして、自分の感情を細かく分析して感じ取る「情緒力」、他者の気持ちや見知らぬ世界を思い描く「想像力」、物事の因果関係を考える「論理的思考力」を磨いていく。そしてそれらを駆使して自分を表現することで他者と関係性を築き、社会での立場を獲得する。(中略)

国語力とは、いわば語彙をベースにして、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、社会の荒波のなかでバランスを取りながら進んでいくための「心の船」のような力だ。逆に言えば、それがなければ、人びとはいとも簡単に荒波に揉まれて転覆してしまう。

 

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