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闇市では危険な密造酒が横行...戦後の酒不足を、日本人はどう乗り切ったのか?

髙橋理人(酒蔵コーディネーター)

2024年11月13日 公開

闇市では危険な密造酒が横行...戦後の酒不足を、日本人はどう乗り切ったのか?

米を原材料とする日本酒。戦時下で米が配給制となったことを受け、酒造りの現場は非常に厳しい状況に陥りました。それでも日本酒に対する需要は高まり続け、健康に害をなす密造酒が横行する事態に...。戦中、そして敗戦後のお酒好きの日本人は、どのように酒不足を乗り越えたのでしょうか? 酒蔵コーディネーターの髙橋理人さんによる書籍『酒ビジネス』より解説します。

※本稿は、髙橋理人著『酒ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)を一部抜粋・編集したものです。

 

米騒動から生まれた日本酒錬金術

大正時代に入ると、第一次世界大戦の勝利による好景気に沸きます。日本人は裕福になり、一般の市民も白米を食べるようになりました。また、若者の東京進出に伴い、地方の労働力は衰退していきます。

こうした状況により、米の価格は3倍以上に跳ね上がります。現代で言えば、5kgで2000~3000円のお米が1万円近くになるようなイメージです。特に、当時は米中心の生活なので、それに反発する形で各地から暴動が多発する「米騒動」が発生します。米の入手が困難になったことで、お酒づくり用の米も不足してしまいました。

そんな時世の中で、日本人は少ない米で酒づくりができるよう研究を開始しました。これはアルコールに糖類、アミノ酸などを加えて、清酒のような風味にした「合成清酒」と呼ばれるお酒で、言い換えるなら「日本酒風アルコール飲料」です。ある意味、日本酒の錬金術のようなもので、日本人のお酒好きは健在で、たくましさすら感じます。

 

昭和前半の技術開発ラッシュ

昭和の前半は技術開発が大きく進んだ時代でした。例えば米を削る割合は、従来では1割程度でしたが、1930年頃に完成した縦型精米機(サタケ製)によって、3割程度まで削れるようになりました。精米歩合で表現すると、90%から70%まで削れるようになったことを意味しています。

「精米歩合」とは、原料の米(雑味の元となるたんぱく質を多く含む外側部分)をどれくらい削ったかを表す割合です。たとえば精米歩合が50%以下(半分以下)に削った米でつくった純米大吟醸は、最高ランクのお酒に分類されます。

精米による日本酒の味わいの変化は絶大で、雑味のある味わいからすっきりとした味わいになり、日本酒の酒質が大きく変化しました。また、1935年には酒米の品種改良が進み、酒米の王様として80年以上君臨し続ける「山田錦」が誕生しました。第二次世界大戦が始まる直前まで、日本酒は次々に大きな進歩を遂げた明るい時代だったのです。

 

戦争の始まりと、酒不足と闘う日本人

1937年に日中戦争が始まると、食糧として米を確保するために、政府は酒づくりの量を抑える「酒造半減令」を発布します。これにより国内で酒が大いに不足します。そして、酒を水で割って薄めて販売するという問題が起こってしまいます。その薄さは金魚が泳げるほどだったと言われ、「金魚酒」と揶揄されたほどです。

そこで、日本政府は税収の確保と品質維持を目的として、アルコール度数とエキス分の量によってクラス分けをする「級別制度」を実施します。この法律は平成に入るまで続くほど影響力が大きく、現在のアルコール度数が15度~16度のお酒が多いのはその当時の名残と言われています。

同じ時期の満州国に目を向けると、日本人入植者の多くが若年層であったこと、寒冷地で体を温めるためにお酒を必要としたことから、国内と比較して1人当たりの日本酒の消費量が2倍と言われていました。

しかし、日本国内からの輸送に加え、満洲国内でも日本酒づくりを行っていましたが、現地の水や米、製造設備などに問題があったので、満洲独自の酒づくりの技法としてアルコールを添加する酒づくりの研究が進みました。そのような中、太平洋戦争が始まったことで、日本国内でも米不足になり、逆に満洲で開発されたアルコール添加の技術や合成清酒の技術が活かされ、「三倍醸造酒」が誕生しました。

これは、日本酒の製造過程で日本酒と同じ濃度に希釈したアルコールと糖類(ブドウ糖・水あめ)、乳酸などの酸味料などを添加して味を調えたお酒で、通常の日本酒と比べると3倍の量が造れるので「三倍醸造酒」もしくは「三増酒」と呼ばれました。この時に確立した技術は、第二次世界大戦後の物資不足の際にも大いに活かされることになります。

 

日本酒文化をつないだ三倍醸造酒

戦後の日本酒をめぐる状況はどうだったのでしょうか。少々暗い話もありますが、「お酒好きの日本人」が敗戦の絶望的な逆境下をどのように乗り越えていったのか、という観点で読むと、日本人のお酒とものづくりに対する根源的な魂が垣間見えてくると思います。

戦争によって、空襲などで焼かれた酒蔵だけでも223場、全製造量の17%の酒が失われました。杜氏や蔵人の戦死者も多く、醸造業全体も壊滅的な打撃を受けました。さらに、食糧難により米が不足する一方、本土に復帰した兵員などによって飲酒人口が増加し、酒類への需要が高まりました。

こうして需給バランスが崩壊し、供給が追いつかなくなってしまった結果、メチル、カストリ、バクダンと呼ばれる密造酒が闇市で横行してしまいました。闇市で売買されたので、「闇酒」と呼ばれていました。

例えば、メチルは石油燃料を代替するために製造されたエチルアルコールを水で薄めたものに、メチルアルコールを混ぜたものです。メチルを飲むと失明や死に至るリスクもあり、新聞では「目散る・命散る(=めちる)」と呼ばれていました。しかし、食糧難・物資不足の中では、一般庶民だけではなく教養の高い知識階層も酒を飲みたいという衝動が抑えられず、危険を承知で手を出す人が絶えなかったそうです。

闇酒は健康を損ねるだけではなく、治安も悪化させるので、政府としてはなんとか廃止しようとします。しかし、酒づくりのための米も配給制だったので、思うように酒を造ることができない状況です。そこで、米の使用量を抑えた日本酒が検討されました。

政府が決断したのは、先ほどご紹介した純米酒に対して3倍の量の酒が生産できる「三倍醸造酒(三増酒)」の導入・販売です。遠く離れた満洲で開発された技術が応用されたのです。

三倍醸造酒の取り組みには、全国で150の酒蔵が参加します。そこでの試行錯誤の末、完成した安全で安価なお酒が出回ることで、闇酒問題は一掃されました。

その後も高度経済成長に向けて日本酒の消費は伸び続け、一時的な救済を目的としていた三倍醸造酒は日本酒の主流となりました。お酒づくりに使う米も含めて、配給制により原料の供給が絞られる中でも、「造れば造るほど売れる」という需要を背景に、三倍醸造酒は造られ続けました。

一方で、糖類や調味料を添加した日本酒は「ベタベタする」「頭が痛くなる」といった評判もじわじわと広まっていきました。

1950年代後半は洋酒、ウイスキー、ワインなど西洋の飲み物への憧れや、国産ビールの製造が本格化したことも相まって、日本酒離れが徐々に進んでいきました。そして、戦後に伸び続けた日本酒の消費量も、1973年を機に減少に反転していきます。2024年現在、日本酒の需要はピーク時の3分の1程度とも言われています。

「安い居酒屋で飲んだ日本酒がベタベタしていて美味しくなかった」という経験をされて日本酒を飲まなくなった方は多いと思いますが、実は戦前戦後の食糧難の名残に原因があると私は考えています。

この三倍醸造酒だけを切り取って、「日本酒の低迷の原因はこれだ」と槍玉に上げることもありますが、三倍醸造酒がなければ古来より続いた日本酒文化は衰退し、場合によっては絶滅していた可能性があったと思います。三倍醸造酒は劇薬ではありましたが、お酒好きの日本人が苦難に対して戦った創意工夫の結晶だと言えます。

 

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