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生き方

禅の視点で考える、酷い仕打ちをしてきた相手への「最大の仕返し」

枡野俊明(曹洞宗徳雄山建功寺住職)

2025年01月29日 公開

禅の視点で考える、酷い仕打ちをしてきた相手への「最大の仕返し」

怒りの感情に振り回されることは、「いま生きている時間」を無駄にしかねません。曹洞宗徳雄山建功寺住職の枡野俊明さんは、酷い仕打ちを受けたからといって、その相手をさらに傷つける行為に疑問を抱いていると語ります。枡野さんが考える、一番の仕返しとは?ご著書『傷つきやすい人のための図太くなれる禅思考』より解説します。

※本稿は、枡野俊明著『傷つきやすい人のための図太くなれる禅思考』より一部抜粋・編集したものです。

 

いちばんの「仕返し」は堂々と生きること

みなさんは、腹に据えかねることがあって、「いつかあいつを同じ目に遭わせてやる!」と仕返しを心に誓ったことはありませんか? 信じていた友人に裏切られた、尽くしていた恋人から手酷い仕打ちを受けた、仕事でつきあいのある人に騙された......。

そんなケースでは"報復心"を抑えられないかもしれません。では、虎視眈々と機会をうかがいながら、準備を進め、"みごと"仕返しに成功したとして、心から快哉を叫べるでしょうか。わたしにははなはだ疑問です。どんな相手であっても、人を陥れたり、傷つけたりするのは、けっして心地よいものではありません。

溜飲(りゅういん)が下がるのはほんの一瞬。その後は後味の悪さがずっと残ると思うのです。

しかも、相手がやられたまま黙っているとかぎらない。さらなる報復にでてくる可能性は小さなものではないでしょう。「報復の連鎖」は世の常。歴史もそれを証明しています。仕返しは自分に戻ってくるのです。

そうはいっても、裏切られた悔しさ、手酷い仕打ちを受けたつらさ、騙された悲しさなど、さっさと忘れてしまえ、といわれても、そう簡単にできるものではないことも確かです。心の傷や痛みがいつまでも疼くという人もいます。こんな禅語があります。

「前後際断(ぜんごさいだん)」

道元禅師の言葉ですが、禅師はその意味を薪と灰を例にあげて説明されています。かいつまんでいうと、こういうことです。薪は燃えて灰になります。ですから、薪は灰の前の姿、灰は薪のあとの姿、という見方もできますが、そういう見方をしてはいけない、と道元禅師はおっしゃるのです。

薪は薪、灰は灰で、それぞれ絶対の姿であり、繋がっているわけではない。前(薪)後(灰)は際断、つまり、断ち切られているのだ、というのが道元禅師の説明です。

大切なのは「いま」というその瞬間のみであり、それは過去を引きずってもいないし、未来に繋がってもいないということでしょう。人は過去、現在、未来という時間の流れのなかで生きています。しかし、たったいま生きているのは、まぎれもなく現在です。その現在は過去の後でもないし、未
来の前でもないのです。

過去とも未来とも切り離されて、絶対的な現在(いま)がある。わかりにくいでしょうか。道元禅師はまた、四季を例にあげてもいます。春夏秋冬の四季はめぐりますが、春が夏になるのでもないし、夏が秋に、秋が冬になるのでもないのです。移ろいのなかで繋がっているようでも、それぞれが切り離され、独立してその季節を現出させているのです。

さて、裏切られた、手酷い仕打ちを受けた、騙された、といったことがあったのは過去です。そして、生きているのはその過去とは切り離されたいま(現在)でしょう。ですから、そのいまを、ただ、生きればいいのです。

仕返しを考えるということは、すでにその過去から切り離されている現在を、相も変わらず"裏切られた(手酷い仕打ちをされた、騙された)"自分として生きることです。

そんな生き方でいいですか? わたしは真っ平御免、願い下げです。せっかくしっかり生きることができるいまを、裏切られた、手酷い仕打ちを受けた、騙された、と嘆いて生きるなんてもったいないではないですか。

いまを胸を張って、堂々と、毅然と生きている姿は、裏切った、手酷い仕打ちをした、騙した、当の相手にどう映るでしょうか。

「負けた! 参りました!」きっとそう映るはずです。そして、自分がそんなふるまいに及んだことを恥じ、惨めになるのです。

 

自分の「心の声」を聴く

「坐禅」の「坐」という字を見てください。「土」の上に二人の「人」がいます。これは坐禅というものの意味を端的にあらわしています。僧堂などがない時代には、坐禅は土や石の上でおこなわれていました。

では、すわっているのは一人なのに、なぜ、横にもう一人いるのでしょう。一人はいうまでもなくすわっている自分です。そして、横にいるもう一人は心のなかの自分、禅では「本来の自己」といったりしますが、"その人"なのです。

すなわち、坐禅の意味は心のなかの自分とじっと向き合うところにあるのです。向き合って心のなかの自分に問いかけ、その声を聴く、といってもいいでしょう。

「ここまでの生き方はまちがっていなかっただろうか?」
「今日の行動に誤ったところはなかったか?」
「他人を傷つけるような言葉を発したりしなかっただろうか?」

人は無意識のうちに過ちを犯したりするものですし、他人を傷つけてしまうことだってあるものです。いうまでもないことですが、けっして完璧な存在ではありません。ですから、心のなかの自分と向き合うことが大切なのです。

向き合うことでまちがいに気づけば、あらためることができますし、傷つけた自分がわかったら、その対応に動くこともできるわけです。禅の修行で、毎日、坐禅をするのは、自分の至らなさ、未熟さに気づくためだ、といっても、けっして的外れではないと思います。

みなさんも、坐禅は無理でも、心のなかの自分と向き合うことはできるはずです。とはいえ、現実にはそんな時間は持ったことがないという人がほとんどでしょう。現代人の忙しさは承知しています。

しかし、夜の10分間、15分間でもいいですから、時間をつくれないでしょうか。その時間だけはスマホを「OFF」にしておけば、LINEに邪魔をされることもありません。それが、自分と向き合うスイッチにもなります。

坐禅は、本来、大自然のなかでおこなうべきものです。それは、理由があってのことです。道元禅師にこんな歌があります。

「峰の色 渓の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と」

峰の色、渓の響きは大自然を象徴しています。その大自然はすべて、お釈迦様のお声であり、お姿である、と道元禅師は詠っておられるのです。

そう、大自然のなかで坐禅をすることは、お釈迦様のお声に包まれ、お姿に触れながら、すわるということなのです。これ以上に尊い坐禅はありません。せっかく、心のなかの自分と向き合うという貴重な時間をつくるのですから、よりよい環境づくりをしてはいかがでしょう。

いまは自然の音を録音したCDなども販売されています。川のせせらぎ、風が木々の枝を鳴らす音、小鳥のさえずり、波が寄せては返す音......。そうした音を流しながら、静かに10分間、15分間を過ごすのです。

大自然に抱かれて心は開かれています。そこで、その日一日の言動を振り返ってみるのです。あるいは、ここ1か月のすごし方、この1年の来し方など、振り返る時間の幅を広げてもいいでしょう。

「今日は仕事をひとつ積み残しちゃったな。このところ気合いが足りないかもしれない」
「なんか、惰性で仕事をしている気がする。いけない、いけない、マンネリには気をつけなきゃ」

必ず、気づきがあるものです。それが、心の自分と向き合うことであり、心の声を聴くことだと思います。ぜひ、そんな時間をつくってください。心のなかの自分と向き合うことほど、心を鍛えるものはないのです。

著者紹介

枡野俊明 (ますの・しゅんみょう)

曹洞宗徳雄山建功寺住職

1953年、神奈川県生まれ。曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学名誉教授。大学卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得る。芸術選奨文部大臣新人賞を庭園デザイナーとして初受賞。ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を受章。また、2006年「ニューズウィーク」誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。近年は執筆や講演活動も積極的に行う。

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