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生き方

「無駄なものは一つもない」シスター渡辺和子さんが遺した、前向きになれる言葉

渡辺和子(元ノートルダム清心学園理事長)

2025年04月18日 公開

「無駄なものは一つもない」シスター渡辺和子さんが遺した、前向きになれる言葉

修道女であり、ノートルダム清心女子大学で初めての日本人学長となった渡辺和子さん。生前は病に倒れながらも、最期まで沢山の人々に寄り添い、お仕事に尽くされました。

渡辺シスターの遺品から見つかった原稿を編んだ一冊『あなたはそのままで愛されている』より、人生に起こりうる試練との向き合い方について語られた一節を紹介します。

※本稿は、渡辺和子著『あなたはそのままで愛されている』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

嫉妬の苦しさ

私は嫉妬深かったのです。今でもそうなのかもしれません。自分が愛され、または好意を持たれているかということに人一倍敏感なのでした。

森本哲郎氏が『ことばへの旅』の中で、嫉妬とは、愛の権利を侵害された愛の所有者の怒りであり、また愛の想像力であると述べています。つまり、自分の愛の体験を別の人間に移して想像し、その想像で我が身をさいなむ、拷問のもっともすぐれたものだというのです。

英語で嫉妬はジェラシーですが、また、グリーン・アイズ(緑色の目)を持っているという表現も使います。これはシェイクスピアの『オセロー』の中に、おそろしいのは嫉妬です。そいつは緑色の目をした怪獣です。こいつと来たら、人の心をさんざん食いものにし、苦しめ、もてあそぶんですからね。

とある、イアーゴーの言葉に基づくものですが、嫉妬とは、ほんとうに苦しいものです。

修道院に入る前、職場で働いていた時、私には好きな人がいました。私の安定感はその人に認められ、特別に目をかけてもらうことにあったように思います。事実、そうされていたにもかかわらず、自信のない私は、その人がオフィスの他の女性たちにどのように話しかけ、振る舞っているかが絶えず気になってしかたありませんでした。

その人が同僚の女性と親しげに語らっていたり、楽しげに談笑したりする様が、そのまま、私の地位を揺るがすようでいやだったのです。

ある日、タイピストが腕に怪我をしたことがありました。その朝も、出勤した私がオフィスのドアを開けると、その人がタイピストの腕をとり、ゆるみかけた包帯を巻き直しているではありませんか。私は咄嗟に身をひるがえしてドアを閉め、しばらく戸外を悶々として歩きまわったことがありました。

淋しかったのです。その人が他の女性に優しくしていることもさることながら、そんな態度にしか出られない自分が情けなかったのです。人間には、頭でわかっていても、心がついていかない苦しみが何と多くあることでしょう。

済まない気持ちで職場に戻った時、その人は何事もなかったように優しく、温かく迎えてくれました。私はその包むような大きな愛に、その人が信じていた神の愛の片鱗を垣間見た思いがして、自分の小ささを恥じたものです。

嫉妬というものが、何も生み出さない空しい想像力の働きであること、それはその人を醜くこそすれ、決して美しくするものではないことをしみじみ悟った一つの機会でした。

そしてこうも思いました。もしあの時、怪我をした人に全然関心や思いやりを示さない人だったとしたら、果たして私が尊敬するにふさわしい人だったのかどうかと。たしかに私の気持ちが求めていたのは、私だけを見つめ、私だけを関心事としてくれることでした。

愛というものが、一つの対象との関係ではなくて、その人の全人格と、世界との関わりであることに気づくためには、このような苦しくもにがい経験を、その後もいくつか経なければならなかったのです。

頭ではわかっていても、
心がついていかない
苦しみがある

――にがい経験をいくつか経ることで、自分の小ささに気づき、人は成長していく。

 

運命ではなく摂理として受けとめる

「運命は冷たいけれども、摂理は温かい」

私が50歳で心に風邪を引いた時に、一人のカトリックのお医者さまが、私にくださったお言葉です。

思いがけないことが身にふりかかった時に、それを"運命"と受けとめてもいいし、"摂理"と受けとめることもできるのだということを、私はこのようにして教えられました。

どちらで受けとめるかは本人の自由です。いずれにしても、起きたことに変わりはありませんが、何かが違っているみたいです。

何が違うかといえば、「私」です。「私は運が悪い」「周囲が悪かった」「仕方がない、運命だから」と諦める「私」にもなれれば、他方、「このことの中には、私へのメッセージがあるに違いない」と受けとめる「私」にもなることができるのです。

後者の受けとめ方は、私たちを愛し、私たちの力に余る試練を決してお与えにならない善き神を信頼し、すべてを摂理として受けとめる「私」の態度なのです。

聖書の中にヨハネ福音書があります。その九章を開いてみてください。キリストと、一人の生まれながらに目の不自由な男との話が書かれています。

弟子たちが尋ねます。「先生、この人の目が生まれつき見えないのは、誰の罪のせいですか。本人ですか。それとも親のせいですか」。

キリストは答えます。「どちらの罪のせいでもない。この人において、神のみわざがあらわれるためである」――そう言ってから、その人の目に触れて、見えるようにしておやりになったのでした。

弟子たちが「なぜ、こうなったのですか」と尋ねたのに対し、キリストの答えは、「何のために、こうなっているのか」でした。

摂理として物事をとらえるというのは、この場合、罪の結果として負わねばならぬ運命ではなくて、一つの意味を持っていることに思いを致す姿勢といってもよいでしょう。

「なぜ」と、原因を究明することも、もちろんたいせつであり、そこから学ぶことも多くあります。しかし、現在を引き起こした過去にこだわるよりも、その事象、経験は、私に何を教えようとしているのかと考えることにより、私たちは、より前向きに生きてゆくことができるのではないでしょうか。この世に無駄なものは一つもないのです。無駄にしてはもったいないのです。

諦めるか
受けとめるか
決めるのは自分。

――人生で起こることは、すべて意味を持っている。それが何を教えようとしているのかを考えてみる。

 

両手で有り難くいただく

人類史上、はじめて8000メートル以上の山、アンナプルナの登頂に成功したモーリス・エルゾーグは、その代償として凍傷のため指を失いました。祝賀会の席上、指のない手にグラスを持つエルゾーグに、人々は称賛と同時に同情の言葉をかけました。

それに対しエルゾーグは、にこやかに答えたそうです。

「人々は、失ったものに目を向けがちですが、私は、得たものに目を向けて生きてゆきます」

この年になって、つい失ったものに目を向けがちな私に、エルゾーグの言葉は、「得たものに目を向けて生きなさい」と教えてくれます。

失ったもの――若さ、体力、その他もろもろの機能。しかし、得たものも、何と多いことでしょう。もちろん、その筆頭は、卒業生たちです。そして様々な経験と数え切れないほど多くの有り難い出会い。

ある方が私に、「人のいのちも、ものも、両手でいただきなさい」と教えてくださいました。卒業証書は、お一人お一人に両手でお渡しし、両手でお受け取りになりますね。でも、生きていく上には、受け取りたくないもの、突き返したいものさえあります。

そういうものも、運命として諦めてではなく、摂理として両手でいただきましょう。きっと「何かのために」神さまが備えてくださったのですから。

失ったものより
得たものに
目を向けて生きる。

――受け取りたくないもの、突き返したくなるものも、神さまからの贈り物として両手で受け取ろう。

 

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