父の死を9歳で目撃した、シスター渡辺和子さんが考える「充実した生の送り方」
2025年04月22日 公開

修道女であり、ノートルダム清心女子大学で初めての日本人学長となった渡辺和子さん。生前は病に倒れながらも、最期まで沢山の人々に寄り添い、お仕事に尽くされました。
渡辺シスターの遺品から見つかった原稿を編んだ一冊『あなたはそのままで愛されている』より、人生における時間の捉え方について語られた一節を紹介します。
※本稿は、渡辺和子著『あなたはそのままで愛されている』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
時間とは不思議なもの
星の王子さまが地球に来て言っています。
「みんなは、特急列車に乗りこむけど、いまではもう、なにをさがしてるのか、わからなくなってる。だからみんなは、そわそわしたり、どうどうめぐりなんかしてるんだよ......」(『星の王子さま』サン=テグジュペリ作・内藤濯訳)
新幹線が日本の津々浦々を走り、家庭にもオフィスにも学校にも、時間を倹約するための各種の便利用品が溢れている時に、私たちは、それだけひまになったかというと、むしろその反対です。
そわそわしたり、どうどうめぐりをしているのです。そして、その理由は、「何を探しているのかわからなくなっている」からに他なりません。時間がいくらたくさんあっても、それを使う人間に「目的」がなかったら、その時間は、退屈の対象とはなっても、生命に溢れたものではなくなってしまいます。
「充実した一日だった」と思える日が果たして一年のうち、何日あったことでしょう。忙しい日だったということは言えても、そして、どんなことをした日が充実したと言えるのだろうと思い返しても、何をしたということでの答えは出て来ないのです。
1000人もの人を前に講演した日が必ずしも充実していなかったし、じゃが芋の皮をむいたりして台所に立っていた日の夕方、何ともいえず、充たされた思いをしたこともあります。
3つも4つもの会議があった日が、必ずしも価値があった日とは思えず、聖堂ですごした一日を本当にありがたいと思うことがあるものです。
読みたい本を読めた日が必ずしも幸せな日ではなく、読みたい本を横目に見ながら、「いつか読む日が来るだろう」と希望しながら、その日なすべきことをしていた日に充実感を覚えるのです。
時間とは不思議なものです。同じ時間でも、長く思える時と、短く思える時があります。どちらが幸せかといえば、短く思える時、忙しい時なのかもしれません。忙中閑あり、といった心境を絶えず持ちたいものです。
心が時間をただ「忙しい」と感じとっていてはいけません。私の時間、一生を刻みつつある時間、人格的足跡をつける時間として一刻一刻をいとおしみたいものです。
どんなことをしたか、
よりも
心が充たされていたか。
――それを使う人間に「目的」がなかったら、時間は意味あるものにはならない。
心が時間を感じとる
分刻みの忙しい生活を送っていると、一日でもいい、自分の時間がほしいと思うことがあります。その日には掃除も念入りにしたいし、洗濯も、部屋の中の整理も、そして何より、本が読みたいと思うのです。
ところが、いざ、ひまができると、何となく落ちつきません。本を読んでいても、何か他にもっとするべきことがあるような気になってしまうのです。これは、管理職をして来たことで失った集中力のなせるわざでしょうか。
人間の幸せは、時間と大きくかかわっています。時間が足りないがゆえの不幸もあれば、時間を持てあまして感じる不幸もあります。しかし、時間そのものは公平に、平等に時を刻む無機的なものでしかなく、それを密度の濃いものにするのも希薄なものにするのも、一にかかって人間にあるのです。
会社の仕事に忙殺され、週末のゴルフをこよなく愛し、日曜日の午後、心を残しながらゴルフ場を後にしていた人が、定年を迎え、いざ存分にゴルフをする時間ができた途端に、ゴルフが楽しくなくなってしまったというような話をよく聞きます。
日がな一日ゴルフをすることが必ずしも、この人の幸せだったのではなくて、忙しさの中で寸暇をさいてゴルフをする時の緊張感、「ああ、もう少しゆっくりしたい」という思いを抱く切なさに、充実感を得ていたのではないでしょうか。
学生たちにしてもそうです。朝8時半の授業に間に合うように起きないといけない時は、幸せはもっと寝ていることにあると思いながら、いざ卒業して、職もなく、一日中家にいて何時まで寝ていても一向に差し支えがないようになったら、それで幸せかというと、必ずしもそうではないでしょう。
ミヒャエル・エンデが書いた『モモ』の中に、こんな言葉があります。
「人間は、自分の時間をどうするか自分で決めないといけない。時計というのは、人間一人ひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながら、まねてかたどったものなのだ。光を見るのに目があり、音を聞くために耳があるように、時間を感じとるために心がある。もしその心が時間を感じとらないような時は、その時間はないも同じだ」
時間というものは、だから、絶えず私たちが追いかけられていたり、縛られていたり、ふりまわされていたりするものでは本来なくて、もっと、人間が主体性をもって使ってゆかないといけないものなのです。
時間は誰にでも
平等。
どう使うかは、
自分しだい。
――時間に追われたり、ふりまわされたりすることなく、主体性をもって使うこと。
死を眼前に置いて生きる
死は、確実にやって来ます。そしてそれは、ありがたいことでもあります。なぜなら、もし私たちが死というピリオドを持たないとしたら、つまり時間が無限に与えられているとしたら、「生きているうちにしておかなければならない仕事」というものは、なくなってしまうではありませんか。
今日しようと明日しようと、日切りない生活の中では、すべてのものは等価値に置かれてしまうでしょう。
病にたおれて、「一カ月の生命」と宣告された人がすごす一日の重みは、健康な人々が何気なく送っている一日と、比べものにならない重さを持つに違いありません。それは、「死」といういまわしいものが、人間に贈り得る一つのプレゼントと言ってもよいでしょう。矛盾のようですが、充実した生は、死を絶えず眼前に置く時、可能となるからです。
「死は盗人のように来る」――足音をしのばせて、全く思いがけない時にやって来ます。父の死もそうでした。
その前の晩、「和子、いっしょに風呂に入らんか」と言う父に、「今日はお母様と入る」と答えて、後で何と悔やんだことでしょう。翌朝、それも5分ほどの間に、父は呼んでもかえらない人となっていたからです。
健康な時、危険にさらされていない時に、死を眼前に置いて生きるということは、決してやさしいことではないのです。
充実した生は、
死を眼前に置く時
可能となる。
――死は必ずやって来ると、わかってはいても、全く思いがけない時にやって来ることを、忘れてしまう。