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なぜ他人に「自己責任」を押し付けるべきではない? 能力主義にひそむ罠

山田尚史(マネックスグループ取締役兼執行役/小説家)

2025年04月24日 公開

なぜ他人に「自己責任」を押し付けるべきではない? 能力主義にひそむ罠

資本主義社会で成功を収めた人の中には、成功と不成功の要因を個人の努力に帰結させ、「自己責任主義」を強く主張する人もいる。しかし、実際には遺伝的な要因など、努力だけでは克服できない側面も存在しているという。

本稿では、小説家(「『このミステリーがすごい!』大賞」大賞受賞)、AI研究者(東京大学・松尾豊研究室出身)、経営者(マネックスグループ取締役)の3つの視点から山田尚史氏が考える「自己責任主義の功罪」について、書籍『きみに冷笑は似合わない。』より紹介する。

※本稿は、山田尚史著『きみに冷笑は似合わない。SNSの荒波を乗り越え、AI時代を生きるコツ』(日経BP)を一部抜粋・編集したものです。

 

「自己責任思考であるべき」ではない

「自己責任主義でいると得をする」ということと、「自己責任主義でいるべきである」という主張には大きな違いがある。前者は資本主義社会を生きるうえでのTips であり、後者は道徳に対する態度である。

そもそも、自己責任主義であるとはどういうことか。例えば、最も先鋭的な言い方をすると、大人気漫画『東京喰種 トーキョーグール』(石田スイ作/集英社)の一節では「この世のすべての不利益は『当人の能力不足』で説明がつく」と述べられている。これは自分を律する言葉としては悪くないが、さすがにこの世全ての事象にこれをあてはめるのは極端すぎるだろうか。

資本主義の考えを基礎とする今の日本社会において、採用をはじめとする企業活動は能力主義(メリトクラシー)に沿って行われ、構成員はその成果に見合う報酬を享受しているものと考えられている。

加えてそこで評価される能力は、生まれながらの先天的才能の存在は認めつつも、後天的に伸ばすこともできるものとみなされている。

具体的には、一生懸命勉強し、努力していい仕事に就き、自己研鑽を行い昇進や昇給を目指す、というのは日本人のメンタルモデルとして一般的な考え方として受け入れられている。

しかしながら、こうした一見平等な能力主義は必ずしも正義だと言い切れない。

ハーバード大学教授のマイケル・サンデルが著した『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳/早川書房)は、その観点を歴史や政治、市場から論じた本である。この本では、似通った主義主張が複数解説されており、サンデル教授をして(日本語で)400ページを要する書籍であるので、私が一言でエッセンスを抽出することは難しい。ただ、目についたものを抜き出すと、論点はこういうことだと思う。

能力主義が正しいとすれば、巨万の富を得ている人たちは、それに見合う人たちだということだろうか。そしてそれは運ではなく、努力や平等な競争によって勝ち取られたものなのか。その一方で、貧困にあえいでいる人たちは、お金を受け取る価値がない人々だということか。エリートがそうでない人々を見下すのは、当然のことなのか。

それに対して私は、能力主義ないし自由市場的リベラリズムによって社会生活を営むと得することが多いことを認めつつ、一個人としてはそれに批判の目を向け、ロナルド・ドウォーキンが言うところの運の平等主義に近しい考え方をしている。そして、成功に向けた活動として能力主義の一部を利用することもあり、その方法はここに書き記そうと思う。

ただしそうした主義主張は、客観的なものではなく、主観的なものである。つまり、自分自身にのみ適用可能で、他者の評価には定義上使えず、相手に押しつけるべきでもないものだから、能力主義に従って他人を見下すなどもってのほかだ、という私の姿勢は明らかにしておく。

私はこの世のものを「自分がコントロール可能(に見えている)」なものと「自分がコントロール不可能」なものに分けて考えている。そのうえで、前者の範囲で全力を尽くすべきだし、もしそこで手を抜くのなら、そこから不利益を受けるのは当然だ、という考え方をしている。

こうしたコントローラブルなものに関するアクションを、経営においては「打ち手」や「レバーを引く」ということもある。言い換えれば、能力不足でいい打ち手を思いつけなかったり、レバーが引けるのになまけたりしたのであれば、その後悪い結果が出ても、運の悪さを嘆いたり誰かを呪ったりするのはお門違いだ、ということである。

ここで重要なのは、普通、レバーというものは全てが可視化・あるいは提示されているものとは限らず、そこにレバーがあるということに気づかない場合がほとんどである。これは経営でも同じで、だからこそレバーを見つける訓練、引く訓練というものはとても大事である。

一方で、上司・部下の関係がある場合には、上司は部下の引けるレバーや、少なくともレバーの探索範囲、裏を返せば動かせない変数=定数というものを明示しなければならない。これこそがロール&レスポンシビリティにおける、ロールの基本的な考え方だと私は解釈している。

『実力も運のうち』では、先述の運の平等主義について、「自然的運」(隕石の被害者)と「選択的運」(賭けに負けるギャンブラー)を区別するものと解説されている。

これに則ると、私は選択的運が介在するような場面においてはベストを尽くす責任が個々にあり、その結果としての不利益は当人が責任を負うべきであろう、と考えている。

また、自然的運の多くは、保険商品のような形で未然にそれを防ぐレバーが存在する場合もあるということが同書でも紹介されており、ある程度コントロール可能であるという考えに同意する。一方で、生まれつきのハンディキャップなど、本人の責任に帰すべきではないものもあり、それは可能な限り別の形で補償されるべきであると考えている。

そして、ベストを尽くしうる場面において、自分の人生においては自分が経営者であり執行者であり最終責任者であるので、結果を引き受けるのは自分である。無論誰かに第三者的なアドバイスを受けることもあろうが(というか、受けた方がいい)、その場合でもそのアドバイスを受け入れるかどうかを最終的に判断するのは、他ならぬ自分だ。

というのをひっくるめて、私は自己責任主義と呼んでいるが、これはある意味ぜいたくな考え方であって、全ての人がこう考えるべき、とは全く思わない。以降は、その理由についても触れる。

 

成功の要因を努力に求める人々と能力主義の罠

『実力も運のうち』によれば、成功した者ほど、その要因を自分の努力に見出したがる傾向があるという。また、行き過ぎた能力主義を貴族社会と比較し、どちらも不平等な社会でありつつも、能力主義は成功できない人たちに、生まれではなく自分の努力が足りないという事実を突きつけることで、自尊心を弱らせてしまうと論じている。

2017年に新書大賞を受賞した橘玲著『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)でも、知能や学歴は遺伝の要因が強く、努力ではそれに抗えないという説が展開されている。

その真偽はさておくとしても、後天的な知的階級の再生産については、直感的にわかりやすい。教育費を多く投じる家庭の子供ほどいい学校に受かりやすいというのは想像に難くないし、最近ではこうした生まれつきの不平等を「親ガチャ」と揶揄することもある。誰かの成功は裕福な親に生まれたからであり、自分が成功できないのはダメな親に生まれたから、というわけだ。

『実力も運のうち』でも、富裕層に生まれた子女がいい大学に入りやすいという傾向について、具体的な数字とともにこれでもかと例が挙げられている。

無論、人は一人ひとり違うから、生まれつきできないことがある人もいる。染色体異常で長く生きられない赤子の話など聞くと、1人の親として他人事ではなく、あまりに不憫で涙を禁じえない。その子がそんな体で生まれてきたことが、自己責任だなんて考え方は絶対にしたくない。

あるいは、生まれつき手が悪かったり、足が悪かったり、うまく運動できない人もいる。私自身も片目が生まれつき不正乱視で、どんな眼鏡をかけても視力は0.1以上にならない。正直、とても不便である。だが、そうしたことについて、それは自己責任だから不便でも受け入れろ、なんて言っても仕方ない。

生まれそのものの運の悪さを嘆くことはあろうが、それはそれとして、明日のために今日何をするか、各人の自由意志に委ねられている部分はあると、私は信じている。少しでもより良い明日を迎えるため、たゆまぬ努力を続ける余地があると信じて、自分のためにできることをしよう、というのが私の主張の根幹である。

それにおいて、自己責任主義やそれに近しい能力主義を一部援用することもある。

ただ、同じことの繰り返しになるが、「君は自己責任主義でいるべきだ」なんてことは、他人に言うべきことではないだろう。あなたがどのような思想信条を持つのも自由であるが、それを他人に押しつけるべきではない。

私の言う自己責任は自分自身だけに定義すべきものであって、他の人が頑張っているかどうかなんて知らないし、不幸かどうかなんて知らないし、それを嘆いているのかも知らない。そこに、「君も自己責任主義で頑張ろう」なんて横から声をかけるのは、本当に大きなお世話である。

それではなぜこんなことをわざわざ書いているかというと、こういう考え方で生きると得をする場合が多く、結果それをもって視界や活動の幅が広がるだろうから、支持しなくてもいいので考え方の選択肢の一つとして知っておいてほしい、ということである。

最後に、私の周囲、特に経営者には、程度の差はあれ、自己責任主義で生きている人が何人かいる。そして、それらの人の多くが、客観的に見て社会的成功を収めているように見える(もちろん、そこに因果関係があると言いたいわけではない。成功者がそういう思想を持ちやすいというのも、先ほど述べたとおりである)。

だが、そのような思想があることを知り、試してみてもいいのではないかと思う。

 

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