シベリアからの引き揚げ港として知られる舞鶴にある共楽公園には、かつて進駐軍の日系アメリカ兵が植えた「アロハ桜」がある。戦後の貧しい時代に植えられた桜は、時を経て見事な花を咲かせ、人々にその存在を知らせた。いったい誰が、どのような思いで植えたのか。その主が、プランテーションで働くためにハワイに移り住んだ日系二世、フジオ高木だ。
高木は戦後、岩国に住む母に貯蓄を差し出すも「米兵の金は受け取れない」と拒絶された。その時の母の言葉を胸に、彼は桜の苗木100本の寄付を決意する。1949年、苗木の到着と同時に転勤が決まった彼は、植樹を他の日系兵に託し、舞鶴を後にした。歳月とともに寄付者の名は忘れ去られ、美しい花を咲かせる桜の贈り主は、その後20年以上にわたり街の空白となった。
※本稿は、細川呉港著『舞鶴に散る桜』(飛鳥新社)の内容を一部抜粋・編集したものです。
桜を植えた日系アメリカ兵と迫水周吉
フジオ高木には、ずっと考えていることがあった。一度は岩国の母に、家の修理代として提供し、断られたお金のことである。「アメリカ兵の金は受け取れない」と母が拒絶したお金だ。母親だって咽から手が出るほど欲しかったはずである。
「もし、お前に日本人の血が流れているのだったらその金を、この惨めな日本人のために使いなさい」と母が言った。
高木は、父親ともいえる迫水に相談した。迫水はこれまでにも何かにつけて協力を惜しまない男だった。
高木は、桜の木を植えるのはどうかと提案した。
桜の木なら、日本人は誰だって喜ぶだろう。それに日系のアメリカ人は親から散々桜について聞かされている。桜を見ないうちは、日本人の心は分からないとも。
「前から、桜のことをフジオはよく口にしていた」と、後に結婚することになる迫水弥生も証言している。
迫水は元々、庭にバラをつくっていて、愛好会にも入っていたから、花や木には造詣が深かった。話はすぐに決まった。迫水が大阪の池田市から桜の苗木を取り寄せてくれることになった。池田は昔から、埼玉県の安行のような植木や苗木の町であった。
しかし一度に100本。終戦後、いくら池田といえどもすぐには揃わなかったと思われる。あるいは何カ月もかかったかもしれない。なぜかというと戦争中は何がなんでも食料増産が叫ばれ、とても植木どころではなく、むしろ桜の苗木を育てることさえ禁止されていたのである。
それは、京都の代々続く桜で有名な植木職人、桜守の佐野藤右衛門のところでもそうだった。15代目の藤右衛門は、大谷光瑞の要請で、アジアからヨーロッパまで、「桜の街道」をつくるべく、桜の苗木100万本の増植計画を立てていたが、国家の一大事に、桜などつくるのはけしからんと、苗木の大半を引き抜いて食料の増産をさせられたのである。おそらく池田市も同じようであったろうと思われる。
一方で、「迫水の娘、弥生からの紹介だといって布川治に共楽公園に桜を植えたいという相談があり、布川から当時の舞鶴市会議員、矢野健之助に連絡した―」という記述が、舞鶴で発行された『碑とその語るもの』(1975年、瀬野祐幸著。私家版)という小冊子に書いてある。
舞鶴の共楽公園の丘に桜を植えるというのだから、当然、市の許可が必要だったのであろう。布川はどういった人物かよく分からないが、「クリスチャン仲間」と書いてあるから、迫水弥生はクリスチャンで、布川と同じ教会に通っていたのかもしれない。この時の仲介のお礼のつもりだったのか、布川治の家の上には桜の木が一本贈られていて、現在でも布川の自宅の裏手の広場に枝を伸ばしているとも書かれている。『碑とその語るもの』という冊子の中の「共楽公園地区の碑その六」である。
この冊子のことは、『ハワイ報知』(The Hawaii Hochi)という新聞の座談会の中でも引き合いに出てきて、延国千恵という女性が座談会にこの冊子を持参している。延国千恵は、舞鶴出身で、やはり駐留していた日系米兵と結婚し、ホノルル在住の女性だ。
1949年11月に、池田からソメイヨシノの苗木百本が東舞鶴駅に着いた。その同じ日に、高木は軍の編成替えで京都に転勤になった。高木は桜の苗木百本を東舞鶴駅で確認し、その植え付けを、その時駅で偶然に出会った日系二世アメリカ兵たちに頼んだのである。お互いに顔見知りだったかどうかは分からないが、舞鶴駐屯のハワイ出身日系アメリカ兵ということでは同じ仲間だった。高木は名前も聞かないままだったらしい。兵隊たちは快く引き受けた。高木は翌日舞鶴を後にした。
高木は、仲間のアメリカ兵が、日本人がいまこんなに飢えているのになぜ、食料を援助しないのかと言われたと、後に証言している。それからまた、桜は高木が寄付しただけではなく、この時桜の植え付けを頼んだ日系のアメリカ兵たちも、自分たちの集めた金で桜の苗木をさらに買い、舞鶴市内のあちこちに植えたのだ、とも言っている。
おそらく舞鶴にいた日系アメリカ兵だけでなく、迫水周吉も舞鶴造船の部下を動員して、桜の植え付けに協力したのに違いない。ひょっとしたら市の代表として市会議員の矢野健之助も参加したかもしれない。矢野はそれから24年後に共楽公園に「ハワイ日系二世をしのぶ友好平和のサクラ」碑を建てている。この碑が、後にさまざまな疑問と問題提議をもたらすのである。
桜は舞鶴港を見下ろす共楽公園の丘に70本、残りは市立和田中学校ほか近くの学校に植えられたとされている。
桜を植えたのは1950年(昭和25年)の春だったという。これは後に述べる日系アメリカ兵エドウィン今村の証言である。しかし、高木自身が語るところによれば、1949年の11月に桜の苗木が東舞鶴駅に着いた―というから、おそらくその年のうちに植えられたと見るのが正しいと思われる。翌年は朝鮮戦争の起こった年である。
舞鶴の丘が桜の名所になる

フジオ高木・弥生、長女(セシリア)が舞鶴市に招待される。1994年4月。
100本のソメイヨシノは、舞鶴に残っていた日系のアメリカ兵と、迫水以下舞鶴造船の青年たちによって植えられたが、やがて、共楽公園の丘の上で、次第に枝を張り大きくなった。10年たち、20年たち、見事な桜に育った。年ごとにその桜はたわわな美しい花を咲かせ、舞鶴の桜の名所となった。それまではあまり気づかなかった市民の人たちも、春になると次第に丘の上に押しかけるようになった。
それでも最初の10年くらいは、その桜を植えたのは終戦当時舞鶴に進駐していた日系のアメリカ兵、それもフジオ高木ということを知っていた人もいたはずである。しかし、20年もたつと市会議員だった矢野健之助も、共楽公園に桜を植える許可を求められたフジオ高木の名前を忘れ、またその仲介をしたクリスチャン布川治も、舞鶴造船の迫水周吉ももうこの世にいなかったのかもしれない。
1973年(昭和48年)になって、市会議長をやっていた矢野健之助は、あの時の日系アメリカ兵のことを思い出し、苗木を寄付してくれた男と、彼に代わって100本の桜の植え付けを手伝ってくれたほかの日系アメリカ兵たちのために、記念碑を建てようと思い始めた。
それより前、舞鶴駐在の日系アメリカ兵と舞鶴造船の青年たちが、何度か親善の野球試合をしたことがあるのも思い出した。新聞にも何度かそのことが報道された。舞鶴の青年たちは「オール舞鶴」という寄せ集めのチーム。日本もだいぶ復興し、落ち着いてきた頃である。
その頃、矢野が聞いた話は、かつて舞鶴にいた日系アメリカ兵たちは、1950年からの朝鮮戦争に駆り出され、「全員が死亡した」という話であった。矢野は心を痛めた。その昔、桜を寄付し、日本の青年たちと一緒に植えてくれた日系アメリカ兵たちが全員戦死した―。
それならばこの見事な桜の下に、彼らの記念碑を建てて、桜を植えてくれた日系アメリカ兵の霊を弔わねばと思った。いま共楽公園で毎年見事な花を咲かせる丘の上のソメイヨシノは、その時の兵隊たちのおかげだ。終戦4年目、その頃の日本人は食べる物にも不自由をし、その日暮らしで、とても桜を植えるようなゆとりなどなかったのだから―。
そこで矢野は、いろいろな人に会って、桜を最初に寄付してくれた人の手がかりを尋ねたが、誰も覚えている人はいなかった。果してその人が生きているかどうかも分からない。朝鮮戦争で死んだのかも知れなかった。
矢野健之助は、ハワイから来た日系アメリカ兵が共楽公園に桜の植樹の許可を得に来たことだけはハッキリ覚えていたのだが、どうしても名前を思い出すことができなかった。あの時きちんと名前を書いておけばよかった―。
ちょうどそうした折に、終戦後、日系二世の兵隊と結婚した舞鶴の女性、延国千恵が法事でハワイから里帰りしていた。矢野は、その噂を聞き、延国千恵の家を訪ねて、「終戦後に共楽公園の丘の上に桜を寄付した日系アメリカ兵を知らないか?」と尋ねた。もちろん延国も知らなかった。戦後、舞鶴駐屯軍の日系米兵と結婚し、ハワイに住んでいる女性はたくさんいたけれども、そんな話は聞いたことがなかった。
何とかそのアメリカ兵に感謝の意を込めて、記念の石碑を建てたいという矢野に、延国千恵はホノルルに帰ったら、地元の新聞に舞鶴に桜を植えた人を探す記事を書いてもらうことを約束する。
延国は、帰国後、早速ホノルルで『ハワイ・タイムス』という日本語新聞社を尋ね、桜の記事を書いてもらう。しかし反応はいまいちだった。その記事を読んで、ひとりエディー・ハシモトという人から延国に電話があったが、ちょうど延国が留守だった。そしてその後は一度もかかってこなかったという。おそらく舞鶴に桜を植えたことを知っている人間だったか、あるいは実際に桜を植えるのを手伝った日系アメリカ兵かもしれなかった。もちろん桜の贈り主そのものも現われなかった。







