《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年5・6月号Vol.11 より》
時代を超える思想のひらめき
前回まで述べたように「加速化する戦乱・下剋上」「高まる社会的流動性」──まるで現代のグローバル状況と見紛うような難問に、孔子は直面していました。
では、これらの解決策として孔子は何を提示しようとしたのでしょうか。その核となる概念が「仁」に他なりませんでした。
孔子は生涯にわたって多くの弟子を育てていきました。また、自らも政治家として活躍したいと願っていました。その目指すところの一つは、自分たちが手本となって天下にこの「仁」を広めていくことにあったのです。
顔回が、仁とは何か、とたずねた。孔子が答えるには、
「私心に打ち勝って、礼に合致することが仁である。一日でもそれが実践できれば、天下の人々も、おのずから仁の徳がなびいてくる。仁を実践できるかどうかはそれぞれの心がけの問題であって、人から強制されるものではない」(顔淵、仁を問う。子曰く、「己に克ちて、礼に復るを、仁となす。一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。而して人に由らんや」)――『論語』顔淵篇
ここで言う、「仁」とはどのような意味なのか。実はこれが、はっきりしないのです。『論語』のなかで「仁」に言及した代表的な個所をあげると次のようになります。
・人を愛すること(人を愛す)――『論語』顔淵篇
・仁者は、率先して困難な問題に取り組み、得ることは後で考える(仁者は難きを先にして、獲ることを後にす)――『論語』雍也篇
・仁者は、自分が立ちたいと思ったら、まず他人を立たせてやり、自分が手に入れたいと思ったら、まず人に得させてやる(仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す)――『論語』雍也篇
・親を大切にすること、目上を敬うこと、この二つが仁の根本と言えるのではないか(孝弟は、それ仁の本なるか)――『論語』学而篇
「愛」や「利他心」に関係することは何となくわかっても、一言でこれというイメージを結び難い説明ばかり。残念ながら『論語』のなかには、「仁」の決定的な説明が残されていないのです。
ただし、今回のテーマである「孔子は時代の問題を、どう解決しようとしたのか」という観点に照らし合わせると、孔子の「仁」の意味を、うまく浮かび上がらせることができます。
前回、周王朝の政治制度を、親族経営のグループ会社にたとえて説明をしました。成長著しいオーナー会社が、親族を社長にした子会社、孫会社を続々作っていくという……。
ところが、最初は親戚ということで仲良くやっていたグループ会社間の関係も、代が下るにつれて疎遠になっていきます。やがて、「このグループを、本家の馬鹿ボンボンに任せておけない」などという子会社の実力社長が現われ、権力闘争や下剋上が起こるようになりました。しかも、同じ形の争いは次第に子会社内でも蔓延するようになっていったのです。これが春秋時代以降に顕著になった戦乱の根本原因でした。
こんな状況を目にしては、誰しも当然「愛なんて消え失せ、憎しみと敵意ばかりになってしまった」と考えるのが普通ではないでしょうか。ところが孔子の認識は違いました。ここに彼の時代を超える思想のひらめきがあったのです。
解決策――愛を広げる実践としての「仁」
周王朝が平和に治まっていたとき、人々の「愛」は周王朝全体にまで概ね及んでいました。だからこそ、「みなでグループ会社全体を盛り上げていこう」という気持にもなれたわけです。
では戦乱が始まってどうなったのか。「愛」の数は以前と同じだけあったとしても、1つ1つの「愛」の範囲が狭くなったと孔子は考えました。つまり、「愛」を及ぼす範疇が自分の子会社だけ、自分の派閥だけ、家族だけ、と縮小してしまったため、お互いイガミ合うようになってしまったのです。
ならば、これを改善するには「愛」を拡大する方向へと逆転させてやればいいわけです。実際、古今の大学者のうちでも、吉川幸次郎や本田濟といった人々は、まさしく「愛を広げること」を「仁」の解釈の中核に据えていました。
《人間の人間に対する愛情、それを意志を伴って、拡充し、実践する能力》『中国の知恵』吉川幸次郎 ちくま学芸文庫
《思いやりの心で万人を愛するとともに、利己的欲望を抑え礼儀を履行すること。ただし万人を愛するといっても、出発点は肉親への愛にある》『日本大百科全書』(本田濟氏注記)小学館
ちなみに、この愛を広げるステップには、具体的な順番があって、こんな言葉があります。
身を修めた後に家庭を整える。家庭を整えた後に国を治める。国が治まった後に天下を平和にする(身修まって后に家斉う。家斉って后に国治まる。国治まって后に天下平らかなり)――『大学』経一章
これをお経の呪文のように「修身斉家治国平天下」と略して言ったりもしますが、まず自分を愛し、自分を高めたら、家庭を持ち、それを愛していけ、というのです。そして幸せな家庭が築けたなら、その愛を国や天下にまで押し広げて、平和な世の中を作っていけると考えたわけです。
現代でも、国や会社の利益のために、全体の利益を毀損させてしまうようなケースは跡を絶ちません。京都議定書に調印しなかったアメリカや、ギリシア問題のさいに利益だけ吸い上げて逃げ出したゴールドマン・サックスがその典型ですが、まさしくこうした問題と切り結ぶ思想が「仁」になるわけです。
(現代に生きる中国古典『論語』第3回了・続)
守屋 淳
(もりや・あつし)
中国文学者
1965年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手書店勤務を経て独立。著述のほか、研修・講演も行う。主著に『「論語」に帰ろう』(平凡社新書)、『ビジネス教養としての「論語」入門』(日本経済新聞出版社)がある。
<掲載誌紹介>
『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』
2013年5・6月号Vol.11
2013年4月27日発売
<今号の読みどころ>
5・6月号の特集は「日に新たな発想」。
古今東西を問わず、リーダーの多くは「新しい発想」や「新しいことへの挑戦」を重視する。松下幸之助も、会社の業容が大きくなるにつれて、「きょうもまた本日開業の心持ち」でいる姿勢を事あるごとに社員に求め訴えていた。
とは言うものの、新しさを追い求め続けることは簡単ではない。本特集では、「日に新た」の思いに徹し、柔軟な発想のもと、それぞれの仕事に挑戦している達人たちに、その取り組み方を学ぶ。
そのほか、元松下電器副社長で日本テレネット取締役相談役の佐久間曻二氏が松下幸之助から学んだ商売の本質を語る講演録や、米大リーグ・シアトル・マリナーズでトレーナーを務めイチロー選手や長谷川滋利氏などとも交流のある森本貴義氏が「トレーナー道」を記した記事も、読みどころ。