本を読み終えたとき、「なるほど、勉強になった」という満足感で終わっていませんか? その感覚こそが、実は読書の最大の落とし穴かもしれません。書籍『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大読書』より解説します。
※本稿は、西岡壱誠著『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大読書』(新潮社)より一部抜粋・編集したものです。
本を読む上で、いちばん気をつけるべきこと
みなさんは、本を読む上でいちばん気をつけなければいけないことは何だと思いますか?
「途中で読み間違えてしまうこと?」「前に読んでいた内容を忘れてしまうこと?」
いいえ、違います。正解は、「わかった気になってしまうこと」です。本を読むと、人は「わかった気になって」しまいやすいのです。
一言で言い表せなければ、わかっていないのと同じ
多くの人は、本を読んでも「わかった気になっている」状態で終わってしまいます。
たとえば、いちばん最近に読んだ本のことを思い出してください。その本で、著者は何を伝えたかったのか、わかりますか? 一言で言い表してみてください。
……なんて言われて、きちんと言い表せる人は稀です。何度も本を読み返していても、「一言で言い表す」ということはなかなかできません。
しかし、「その本で著者が何を伝えたかったのか」を一言で言い表すことができなければ、「わかった気になっている」のと同じなんです。
本当に理解できているかどうかは、短い言葉で伝えられるかどうか、つまりは「要約できるかどうか」でわかります。
どんなものにも「ミクロなモノの見方」と「マクロなモノの見方」が存在します。細部や部分部分を理解するのは「ミクロなモノの見方」、全体としての大きな流れを理解するのは「マクロなモノの見方」です。
それで言うと、どんなに部分が読解できても、「要するに何なのか」が理解できていない状態というのは、「マクロなモノの見方」ができていない状態と同じなんです。
「ホントかなあ?」と思うのであれば、1つ「イジワル」をお教えします。
あなたの友達に、「君が最近読んだ本の著者が、何を伝えたかったのかを教えて」と聞いてみてください。
一言で返ってきたなら「イジワル」はできませんが、しかし長い言葉で返ってきたら、その言葉を覚えておき、その人が読んだという本をこっそり読んでみてください。
おそらくその人の言葉は、ちゃんと本の中に書いてある言葉だと思います。しかし、それはきっとただの「部分」、つまりそれ以外にも書いてあることはたくさんあるのに、「細部」を切り取っただけであって、全体ではないことがわかるはずです。
東大入試も「要するに何なのか」が問われている
実は僕は、このイジワルを日常的に人にやっています。
なんて言うと、僕が酷いヤツみたいですが、違います。受験生に国語の勉強を教えているときに、聞くのです。「この国語の文章、要するに何を伝えたかったのか、一言で言ってみて?」と。
すると、面白いくらいに差が出ます。文章の内容を自分の中で整理できており、一言できちんと言い表すことができた生徒は、その後に続く問題も、簡単に解けてしまいます。
逆に、文章の内容を自分の中で整理できておらず、一言で言い表せなくて長くなってしまう生徒は、その後の問題も間違ってしまうことが非常に多いです。
「一言で言い表すことができるかできないか」。これが、文章をわかっているかわかっていないかの分水嶺なんです。
これと同じことを言っている国語の先生はたくさん存在しますし、またそれを象徴するかのように、国語の入試問題でもよく「筆者が言いたいことを言い表している一文を次の選択肢から選べ」なんて問題が出題されます。
東大も、「短くまとめられる=ちゃんと理解している」だととらえています。
たとえば東大の入試問題では、大学入試の問題としては珍しい「英語の要約問題」が出題されます。英文のレベルとしては難しくないのですが、「1500ワード程度の英文を、50~60字の日本語で書き表せ」というのは、英語が読めたとしても難しいです。
その他の科目でもまったく同じです。
たとえば「ラティフンディアとは何か答えなさい」というような知識を問う世界史の問題は多いですが、普通は「100字以上で答えなさい」という設問の要求になるのに対して、東大は「60字以内で答えなさい」というように、文字数制限がとても厳しくなります。少ない文字数で、いかにその問題で問われている知識を言い表すかが勝負になることが多いのです。
要するに、少ない文字数で自分の考えや人の意見をまとめることができないというのは、ちゃんと理解していないということと同じなんです。








