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義に死すとも不義に生きず。松平容保と会津武士の高潔な心



2013年06月14日 公開

松平保久(会津松平家14代当主)

松平容保公の愚直さと、松平家にとっての「会津藩家訓」

私の曾祖父にあたる容保公のことをお話しする時、私はいつも「愚直」という言葉を使います。ご存知のように、容保公は文久2年(1862)に京都守護職に就任します。どう見ても火中の粟を拾う役目でした。

しかし会津藩には、3代将軍家光公の異母弟である藩祖保科正之公が制定された「家訓十五箇条」があります。その第一条は「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず(大君には一心大切に忠勤を励むこと。忠勤に励まない他藩があったとしてもそれにならってはならない)」というもの。この家訓を重んじて、会津藩は代々、率先して幕府に尽くしました。容保公が京都守護職に就く苦渋の決断を下したのも、やはり「愚直」とも言えるほどの真っ直ぐで真面目なお心で、家訓を重んじようとされたからでしょう。同時にそこには、会津藩が脈々と伝えてきた「もののふの魂」、つまり「損得勘定で動くべきではない」という精神もありました。

大河ドラマ「八重の桜」では綾野剛さんが容保公を演じて下さっていますが、ああ、こういう方だったかも知れないと感じます。少しナーバスなところもあるけれども、その裏には意志の強さを秘めていて…。

明治以降、容保公は寡黙になられたと聞いております。自分が最も正しいと思う道を選んだことで、会津の方々にとてつもない苦労をさせてしまった。それは辛くてたまらなかったはずです。戦没された藩士の方々の慰霊祭に頻繁に顔を出していらっしゃったのも、その思いがあったからでしょう。

その辛さの中で、容保公の唯一の心の支えは、孝明天皇にご信頼いただいた思い出だったはずです。容保公は、孝明天皇より賜った御宸翰を肌身離さず持っていました。もしかしたら、御宸翰がなかったら容保公は自害されていたかも知れないとすら思います。

変な話ですが、戊辰戦争のどこかの段階で御宸翰を広く示して「お前たちこそ朝敵だ」と主張することもできたはずです。しかし容保公は、決してそうはされなかった。明治に入ってから、御宸翰の存在を知った新政府がそれを高額で買い取ろうとした時も、容保公は決して首を縦には振りませんでした。

御宸翰を表に出して騒ぎ立てるようなことをすれば、いわば私信として御宸翰を賜った孝明天皇の大御心を裏切ることになります。それはたいへんな無礼ですし、不忠でもあります。さらに、孝明天皇との大切な思い出に泥を塗ることにもなる。容保公としては到底そのようなことはできなかったのでしょう。

昭和3年(1928)に、松平家から勢津子妃殿下が秩父宮雍仁親王にお輿入れになりました。勢津子妃殿下も「自分が皇室に入ることが会津の汚名を雪ぐ」ということを深く考えておられたようで、ご先祖様のお墓に参るという形でわざわざ会津に報告に行かれています。その折の写真などを見ると、会津の方々が「朝敵の汚名が晴れた」と提灯行列で大喜びしていたことがわかります。

鶴ヶ城籠城戦を戦った山本八重さんも、この時、印象探い和歌を詠んでおられます。

<いくとせか みねにかかれる村雲の はれて嬉しき ひかりをぞ見る>

会津の方々の胸が晴れるような歓喜を、よく表わしているように思います。

秩父宮殿下は昭和28年(1953)に薨去されますが、その後も勢津子妃殿下は、平成7年(1995)に薨去されるまで皇室の一員として熱心にお務めを果たされました。私の父も、勢津子妃殿下と会津との架け橋になることを自分の役割として強く意識していたようです。会津にまつわることで勢津子妃殿下が気にかけられたことなど、父はよく様々な手配をしていましたが、そのようなお務めを心から誇りに思っていました。

今にして思えば、父がそのような役割を誇りにしていたのも、「会津藩家訓」があればこそだったのでしょう。特に容保公以降、父も含めて松平家にとっては、皇室への尊敬の念という形で、家訓第一条の精神は脈々と受け継がれているように感じます。
 

各々が高潔な「もののふの心」を胸に抱いていた

幕末の会津は、見方によっては非常に損な道を選択したとも言えます。当時の会津藩士たちは優秀な人材が多く、非常にグローバルな視点を持っていましたし、幕藩体制の限界も十分に見抜いていたはずです。それでも「会津藩士として自分はこう行動すべき」と、自分の行動規範を律し、藩士一丸となって行動されました。忸怩たる思いはあったでしょう。しかしそれを乗り越える精神力や団結力は、やはり凄いと思います。

もちろん、どうせ負けるなら敵の靴をなめてでも恭順した方がいいという生き方もあるかも知れません。しかし、当時の会津の人々は決してその道は選ばなかった。それは「殿様の命令だから右へならえ」などではありません。代々受け継がれてきた藩の使命を重んじ、己の信念を貫く強靭な意志、さらに理不尽には屈しない「もののふの心」を藩士の皆さんが各々の胸に抱いていたからでしょう。

その「もののふの心」がもっと弱いものであれば、結束が崩れて早々に会津藩が瓦解してしまうこともあり得たはずです。そうならなかったのは、やはり個々人が「卑怯な生き方はしたくない」という高潔な精神で自分を律していたからこそだと思います。

渾身の戦いを終えて鶴ヶ城が開城した時に、八重さんが詠まれた有名な歌があります。

<明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ>

あの時の会津人各々の想い、そして精神性の高さが真っ直ぐに伝わってきます。

「勝ち組、負け組」という言葉がありますが、現代社会はともすれば「とにかく勝つことが大事」「効率の追求こそ第一」という雰囲気に傾きがちです。しかし、自分なりの信念や義を通すことの重みが、もっと見直されてもいいのではないでしょうか。それが日本人の精神性の豊かさにもつながるのではないか。私はそう思うのです。



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