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『葉隠』と『曾根崎心中』に共通する「死の覚悟」とは?映画『国宝』に引き継がれた日本の精神

山折哲雄(宗教学者、評論家)

2026年10月20日 公開

『葉隠』と『曾根崎心中』に共通する「死の覚悟」とは?映画『国宝』に引き継がれた日本の精神

日本人にとって「死の覚悟」とは、どのような意味を持つのでしょうか。
その起源をたどると、武士道や仏教だけでなく、江戸時代の町人文化にも行き着きます。

武士の死生観を伝える『葉隠』と、男女の愛と心中を描いた近松門左衛門の『曾根崎心中』。一見異なる二つの作品には、「死ぬ覚悟」という共通の主題が見えてきます。さらに、その精神は現代の映画『国宝』にも受け継がれています。

宗教学者で評論家の山折哲雄氏が、歴史や文学、芸能を横断しながら、日本人の死生観に深く根づく「覚悟」の意味を読み解きます。

※本稿は、山折哲雄著『死の覚悟 日本人らしさとは何か』(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

「死の覚悟」の起源

「死の覚悟」の起源を追っていくと、背景には自然に武士道と仏教の思想が浮かんでくるだろう。

「覚悟」は何よりも仏教の考えと深くかかわる。それに対し「死」は「悟(さとり)」とともに仏教でも重要であるが、武士道の華でもある切腹ともかかわる。
「覚悟」の起源は、平安時代の源平合戦、保元・平治の乱あたりの文献をみればいくらでも出てくるのではないのかとぱっと思った。それが出てこない。「覚悟」という言葉自体は平安時代にいたるところに出てくるが、「死の覚悟」「決死の覚悟」という言葉遣いはほとんどない。

源頼政は平家追討の旗を掲げ、結局、宇治川の合戦で敗れた。平等院に逃げ込んで割腹自殺をとげるわけだが、このときの頼政の死に方は、覚悟の死ではない。ただ、切腹という死の作法はここではじめて出てくる。
従者を一人連れて、平等院の堂内に入って鎧(よろい)を脱ぐ。遺言の歌を一首書く。寂しい、弱々しい和歌だ。「自分はさもない一輪の花として咲いて、活動をしたけれども、哀れな、みじめな死に方をしなければならない。悲しいことだ」、これが遺言の歌の意味である。

覚悟なんて関係ない。それから西をみて、念仏を高声で十遍称え、脇差しを腹に突き立てる。同時に従者が首を討つ。首が転がって宇治川の流れに入っていった──。こういう描写だ。
つまり、武士の死の作法というのは大体、この頼政の切腹で定まったのかもしれない。しかしそれは、のちの武士の「死の覚悟」とは違う光景だった。

「死の覚悟」が言葉としてはっきり記されているのが、鍋島藩士・山本常朝の『葉隠』と、近松門左衛門の浄瑠璃『曾根崎心中』だったのは驚いた。
この二つの作品がつくられた時代は、とにかく戦国の世の血なまぐさい気風が去り、文化が繁栄する平和な社会になっていた。そんな時節にいったいどうして「死の覚悟」が問題になるのか。

 

「葉隠バイアス」と「三島コンプレックス」

もう半世紀ほど前になるが、書家の寺山旦中氏に「山本常朝の短冊をもっているが、みにきませんか」と誘われ、たずねたことがある。そこには、「浮世から何里あらうか山桜」と書かれていたのである。
丸みを帯びた、柔らかい文字だ。一字一句が小さく、肩ひじを張っていない。ほとんど、たおやめぶりといっていい。

二代藩主・鍋島光茂が死んだとき常朝は殉死しようとしたが、許されなかった。すでに禁令が出ていたからだが、いたし方なく彼はそのまま出家して山中にこもってしまう。やがて弟子の青年武士・田代陣基が訪れ、師の語る言葉を筆録してこの書が成立する。そしてその冒頭に、先に記した一句が弟子・田代陣基のものとともに掲げられたのである。

彼は、武士の田舎住まいを説いていた。万事、江戸風になびいていく風潮を嫌っていた。主君の死にあい、髪を切って僧になり、山中に身を隠したのもそのため、浮世から離れ、いっそ桜の化身になりたい、と。
この書物をなぜ『葉隠』と称したのか、いろいろな説があるが、有力なのが「主君に対する隠し奉公」「陰徳の精神」というものだった。

ところが他方、西行法師の歌にその根拠を求める説があり、私はそのほうに魅力を感じてきた。彼の歌集『山家集』に出てくるが、
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葉隠れに散りとどまれる花のみぞ
忍びし人に逢ふ心地する
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人里離れた山中で、ふと、路ばたに一輪の花が咲いているのに気づく。それがわが身を隠している風情と重なる。『葉隠』はこの西行の「葉隠れ」に通じているという。

けれどもこの書には全篇にわたって「追腹(おいばら)」「譫言(ざんげん)」「死狂い」といった過激な言葉が並ぶ。「主君に対する忠誠」という主題が顔を出す。それのみか、出家者の生き方を頭から否定して、西行や吉田兼好を批判して、「腰ぬけすくたれ者」と罵倒している。こうして最後に行きついた心境が、次のような「四誓願」だった。

一、武士道に於ておくれ取り申すまじき事
一、主君の御用に立つべき事
一、親に孝行仕(つかまつ)るべき事
一、大慈悲を起し人の為になるべき事

さて、これを何と解するか。まさに武士道と出家道が最後に出会う接点ではないか。
かつて三島由紀夫は『葉隠』精神に心酔して、華々しい自決をとげたが、われわれはまだこのような「三島コンプレックス」、あるいは「葉隠バイアス」の呪縛から解放されていないのではないだろうか。

 

愛の物語としての『曾根崎心中』

面白いのは、この『葉隠』の出現とほとんど同時代の大坂の町人世界で「死の覚悟」の舞台が、堂々と上演されていたということだ。それが先に述べた、近松門左衛門の『曾根崎心中』だった。

これは、当時じっさいにあった事件をドラマ化した人形浄瑠璃である。醬油商の手代・徳兵衛と遊女・お初の二人が、恋を貫いて心中する。これははじめ歌舞伎でとりあげられ、のちに浄瑠璃の庶民劇に仕上げられたもので、日本演劇史上画期的な作品とされてきた。そのきわめつきのせりふがお初の口からほとばしる。

悪人にだまされ、借銭が返せなくなり、もう義理が立たない。この上は徳さま、もう死なねばならぬ、死ぬる覚悟が聞きたい──。

いまわれわれは、「死ぬ覚悟」という言葉を聞くと、まず仏教と武士道を思い描くのではないか。覚悟は「悟り」をめざす境地、それにかかわる死のイメージは切腹を受容する武士道の覚悟──それを合わせて「死ぬ覚悟」が今日までわれわれの社会に生きつづけていた、ということになるのだろう。『曾根崎心中』は、人情が義理を圧倒していく、シェークスピア流の愛の物語でもあったのだ。

 

『国宝』の「死ぬ(る)覚悟」

そのほかにも、この江戸時代には、心ある指導層の町人にとって、浄瑠璃写本は倫理的な教科書の役割を果たすようになっていた。

たとえば幕府のお雇い船頭だった高田屋嘉兵衛。蝦夷地との遠隔地貿易や国後、択捉などで北方海路の発見や開発に活躍したが、そのためロシア艦船に捕えられ、カムチャツカ半島に長期間抑留される。しかもその間、日本からもっていった浄瑠璃本を肌身離さず、単独での外交交渉にこぎつけ、みごとな捕虜交換に成功、無事帰国できた。

嘉兵衛の時代から年ほど前に出た伊勢白子浦の船頭・大黒屋光太夫もそうだった。彼は同じようにロシアに漂流し数奇な運命をたどった人間だが、その間浄瑠璃本を身につけて手離さなかったという。

江戸時代といえば、いつも儒教がとりあげられ、倫理の中心であるかのような議論が多い。けれども民間ではそれよりも近松の浄瑠璃本の役割が大きかった。
しかもそれが『曾根崎心中』に登場するお初のような女性のあいだにも浸透していたことに、あらためて胸騒ぎを覚える。

そして令和の2025年に、『国宝』という映画が上映された。あれを私もみて感動したものだが、ハイライトはまさに、喜久雄と俊介が『曾根崎心中』で「死ぬ(る)覚悟」を演じている場面だった。
あの映画の上映時間は大体3時間で、2時間ほど経ったときにハイライトが訪れる。映画の最後は別の踊りで締めくくっているわけだが、3時間は長すぎたか。『曾根崎心中』道行の場面で切っていたら、あの映画はもっと圧縮された芸術性を発揮することができたと思っている。

それにしてもやはり、ニッポン人の「死ぬ覚悟」を知るには、やはり慎重な配慮が必要なようだ。
【初出『週刊現代』2024年10月19日号】

プロフィール

山折哲雄( やまおり・てつお)

宗教学者、評論家

1931年、米国サンフランシスコ生まれ。岩手県花巻市出身。東北大学インド哲学科卒業。国際日本文化研究センター名誉教授(元所長)、国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。著書に『悲しみの精神史』『宗教の力』(いずれもPHP研究所)など多数。

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