死と向き合う覚悟が、本当の生きる意味を認識させる
2015年06月29日 公開 2024年12月16日 更新
<<山折哲雄氏は、父が浄土真宗を布教するために赴任していたサンフランシスコで生まれ、帰国後は岩手県花巻市の寺院で育ち、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化センター所長などを歴任した宗教学者。
戦後の日本は、「生きる力」の大切さを説くばかりで、「死」を忌み遠ざけてきたが、それが「死ぬ」という人間の避けられない運命について考えたり、正面から立ち向かったりする力をダメにしたのではないか――と疑問を呈する山折氏。
人物ドキュメント番組「100年インタビュー」(NHKBSプレミアム不定期放送)が行った同氏へのインタビューを収録した書籍『死を思えば生が見える 日本人のこころ』から、日本人の「死」への向かい方を語った一節を紹介する。>>
※本稿は山折哲雄著『死を思えば生が見える』(PHP研究所刊)より一部抜粋・編集したものです
カルチャーショックは匂いから
私は宗教研究者ではありますけれども、基本的に大学ではインドの哲学を専攻して、そこからインドが好きで仕方がないという人生が始まったわけです。
学問の方は、まあいい加減なものだったと思いますけれど、卒業してから何度もインドに行きました。そしてインドに行って驚いたのは、そこに、地獄と極楽が、想像の世界ではなく、現実に存在するということなんです。
というのは、人類の3千年、5千年の歴史の中で、死というものがそこでは凝縮された形で残され、あるいは大事に継承されているんじゃないかと思えた。だから、インドというところは、何回行っても飽きないんです。
人類の歴史を、見せつけられている気がしたんです。インドは、人間の歴史の鏡みたいなものだと、だんだん思うようになってきてしまっているんですね。だから、ニューヨークとかパリとかロンドンとかに行っても、あれは東京の延長みたいなものですから、1週間もいれば飽きちゃいますよ。
確かに、インド好きとインド嫌いの人は、はっきり分かれるかもしれませんけど。好悪が激しいというか。どろどろした、混沌の世界ですから。
あるオールド・デリーに行ったという人が、これは今日の現実かと思うような、目を覆いたくなる、あるいは耳をふさぎ、鼻もつまんでしまいたくなるような状況だったと、そういう話も聞きましたけどね。
だいたい外国へ行く時というのは、いろいろ文献を調べ、情報を仕入れて行くわけですよ。だからその、視覚的な情報や聴覚的な情報はあふれている。どこでも見たり聴いたりすることができるわけですね。
だけど、匂いだけは現地に行かなきゃわからない。その土地が持っている独特の匂い、そこに住んでいる人々が発散する匂いだけはね。それが、文化というものを支えるいかに根底的なものかということを、インドに行ってはじめて思い知らされたんですね。
カルチャーショックというのは、まず匂いから来たなと、私は思いますね。