楽天創業者・三木谷浩史の人材育成/人材育成 には 「ちょい無茶」がいい
2013年07月24日 公開 2024年12月16日 更新
本気で仕事をしている人にだけ染みる言葉がある。本気で仕事に悩んでいる人にだけ見えるヒントがある。
日本を支えた男たちの個性あふれる言葉の中から、楽天創業者・三木谷浩史の言葉を紹介する。
※本稿は、『心に火をつける 名経営者の言葉』(PHPビジネス新書)の内容を、一部抜粋・編集したものです。
「ちょい無茶」が、人材育成にとって大事である。
三木谷浩史が作った楽天市場は日本最大級のネットショッピングモールに成長し、流通総額は1兆円を突破した。
思い返せば、創業3年で株式を上場し、6年目にはJリーグのヴィッセル神戸を手に入れ、翌年に東北楽天イーグルスも手中に収めた。
短期間のこれほどの成長を、三木谷が楽天市場を立ち上げた1997年、何人の人が予測できただろうか。
三木谷は1965年に神戸で生まれた。父は大学教授で母は小学校時代をニューヨークで過ごした帰国子女。三木谷自身は一橋大学を出ると日本興行銀行に入りハーバード大でMBAを獲った。まばゆい光に照らされたエリート人生である。
だが、楽天市場を立ち上げた時の苦労は、まばゆい光とは程遠いものだった。インターネットのサービスなのに、営業活動は飛び込みで店を回る、古臭い体育会系の手法で戦いを繰り広げた。
理由は、楽天市場というサービスが馴染のまったくないものだったからだ。「楽天市場とは一体何か」をゼロから説明しなければ相手は理解してくれっこない。となると対面営業しか方法はなかった。
楽天のセールスポイントは、当時の商業モールの出店料が100万円もする中、月額5万円という低価格だった。さらに、単にシステムを提供するだけでなく、売上を上げるための販売促進などキメ細やかなサービスも提供した。
三木谷たちは小さな事務所の寝袋で寝て、牛丼を食べては奔走した。少ない人数で出店者獲得の営業を全国に展開していく。
それでも、楽天市場がオープンした時に出店してくれたのはたった13店舗。しかも、すべてが三木谷の知り合いの店だった。オープンした月の全出店者の売上はわずか18万円で、利用したユーザー数は30人もいなかった。
三木谷たちはそれでも負けずに泥臭い営業を地道に重ねていった。1年ほど経つと出店数は100店を超えた。これを起爆点にして出店数は急速に伸び始め、3年目で1800店を突破する。
着物の卸問屋やリンゴ農家、お米屋など1軒1軒回って相手の顔を見て話してインターネットショッピングの可能性を語った。三木谷は、高級スーツを着てPCを操りサーバー空間を駆け巡るのとは違う貴重な実体験をしていた。
ところで、三木谷はハーバードビジネススクール在学中に「大企業での出世よりも、自分で会社を興すことこそがビジネスの醍醐味」という起業家精神に強く触発されていた。
そして1995年。阪神大震災が三木谷の人生を変える。震災で親しくしていた叔父夫婦を亡くしたのだ。
三木谷は破壊された神戸の瓦礫の中を行方不明だった叔父夫婦の姿を捜して歩き、学校に安置された数限りない棺の間を彷徨った。人の命のはかなさを三木谷は痛感した。自分もいつかは死ぬ。
ならば「やりたいことをやろう」と起業の扉を開けた。
少ない人数で楽天を立ち上げ、時代の変化を先取りし発展させてきた三木谷は、人材育成には「ちょい無茶」がいいと唱えている。
「生ぬるい目標を掲げていては、人も組織も育たない。少し無茶なくらいの発想、いわば「ちょい無茶」が、人材育成にとって大事ではないかと思う」と語るのは泥臭い実体験からだ。
楽天市場を立ち上げる時のこと、システム開発は自前ですべきと考えた三木谷は、当時、大学院を出たばかりで唯一のメンバー本城愼之介に任せることにした。
『初めてのSQL』という本を買ってくると、本城に「この本を読んで作れ」といきなり命じた。本城は面食らい「無理だ」と思った。それでも、家庭教師を一週間付けてもらって猛勉強するとあっぱれ、期待通りシステムを完成させた。
社内公用語を英語にしたのも「ちょい無茶」の範疇だろう。「ちょい無茶」の成功体験は、次へ挑む自信を生み出してくれる。
楽天:1997年に「楽天市場」を開始。3年後に株式上場。インフォシークなど企業買収で事業を拡大。2008年、EC事業で海外展開。2011年、楽天市場の年間流通総額が1兆円を突破。Jリーグ・ヴィッセル神戸やプロ野球東北楽天イーグルスを傘下に持つ。2012年電子書籍事業に参入。連結売上高約4400億円。