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生き方

山本覚馬の殖産興業と人づくり~京都を近代化した会津人の思い

福本武久(作家)

2013年08月16日 公開 2021年04月15日 更新

山本覚馬

山本覚馬が交流した錚々たる人々の思いを盛り込み、渾身の力で建白した『管見』を顧みず、内乱中止の訴えも無視して、故郷の会津を蹂躙した明治新政府。しかし、覚馬は屈さない。

「ならば斃れた人々の理想を自分がこの京都で実現してみせる」。以後、覚馬は病身をものともせず、妹・八重の助力も得て、殖産興業と人材育成を推進していく。それが、己の天命を果たすべく全力を尽くす会津人の魂であった。

『歴史街道』2013年4月号より

※本稿は『歴史街道』2013年4月号より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

寂れゆく京都を日本近代化のモデルに

幕末動乱の最中に視力を失い、徐々に歩く力も失っていく障害に苛まれた山本覚馬。しかし彼の身を襲った不幸ゆえに、結果として覚馬は生き延びることができたともいえます。

もし目が見えていたら、鳥羽伏見の戦いで会津藩の砲隊を率いて戦い、戦死していた可能性がきわめて高かったはずです。

心ならずも薩摩藩に捕らえられ、幽閉された覚馬が、悶々とした思いをすべてぶつけて新時代の国家構想をまとめ上げたものこそ『管見』です。

この中には、佐久間象山や勝海舟、横井小楠、西周をはじめ覚馬が幕末に交流した錚々たる人々の思いがすべて盛り込まれ、すぐにも取り組めるような合理的な富国強兵策が並べられていました。

覚馬が薩摩藩主に『管見』を提出したのは、慶応4年(1868)6月。彼はこの提言に「日本人同士が争っている場合ではない。会津を討つな」という切実な思いを込めたのかも知れません。

しかし非情にもその2カ月後に会津戦争が始まり、彼の家族や友人たちが理不尽にも蹂躙され、命を散らせていきます。覚馬の胸は張り裂けんばかりだったでしょう。

その一方、『管見』の内容は薩摩藩の上層部や新政府の中枢部に高く評価され、覚馬は明治3年(1870)、京都府の顧問として迎えられることになります。

維新後、明治天皇が東京に遷ったのに伴い、公家や豪商たちなど多くの人々も京都から離れていきました。7万戸あった京都の戸数のうち1万戸が減少したともいわれます。

この事態を憂えたのが、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直でした。木戸孝允(桂小五郎)配下の長州藩士だった槇村は、木戸の意も汲みつつ、大変な馬力で京都復興を推し進めていきます。

天皇が京都を離れるにあたり、お土産金として産業基立金を10万円下賜されていましたが、さらに槇村は新政府から明治2年(1896)に10万円(その後に5万円を加算)の資金貸与を引き出します。

この25万円を元手に産業振興策が打たれていきますが、槇村にその策を具体的に指南していたのが覚馬だったのです。

覚馬が幕末以来、一貫して考えていたこと。それは、諸外国の圧力からわが国を守るために、西洋に学び、諸工業を盛んにして国を強くすることでした。

これは佐久間象山や勝海舟、横井小楠などの覚馬の師や友人たちが皆、考えていたことでもあります。

象山や小楠など多くの先覚者が非業の死を遂げますが、覚馬は、彼らが目指していた新たな日本の姿を、まず京都の地において実現し、日本近代化のモデルとすべく、会津の敗亡や自らの障害という逆境を乗り越え、全力を傾注していくのです。

 

先進的な産業振興と教育への道筋

覚馬は『管見』に著した理想を、京都の地で次々と実現させていきました。明治3年には舎密局を設立します。舎密とは、オランダ語で化学を意味する〈 Chemie 〉を訳した言葉であり、舎密局は欧州の工業力の基礎である理化学を研究・実践する場でした。

まず手始めにレモネードとビールが製造され、その後、石鹸や氷糖、製糸、陶磁器、七宝、ガラスなどの製造や、石版術、写真術の実験が手掛けられていきます。さらに化学染料による染色技術研修も始められました。

明治5年(1872)には、東京遷都で不振となった西陣の織物産業を振興させるために、佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七(織工2人と器械工1人)をフランスのリヨンに派遣し、洋式の最新織機の技術を学ばせました。

彼らの帰国を待って、2年後に織工場(後の織殿)が作られます。ここでは彼らが持ち帰った洋式織機を導入し、機織実習と模範製品の製作が行なわれました。近代技術の導入によって、京都西陣の織物産業は息を吹き返します。

また覚馬は、伏見の向島中之町に鉄工所・伏水製作所を開設します。『管見』で訴えた製鉄の必要性を具体化したものでした。京都の四条大橋や、伏見の観月橋の鉄材もここで生産されます。

取り組みはそれだけに止まらず、製革場や養蚕場、牧畜場、靴工場、栽培試験場、製紙場などが次々に設立されました。

覚馬が手掛けたもう1つの柱が教育制度です。覚馬は『管見』の中で、「わが国を諸外国と並び立つ文明国にすることは急務であり、そのためにはまず人材を教育すべきだ」と述べていますが、その言葉通りに次々に学枚が作られていきます。

実は日本で最初の小学校、中学校は京都で作られました。明治2年に小学校が64校も開校しています。中央政府が学制発布したのは明治5年ですから、それを遥かに先行していました。

明治3年には、二条城北側の所司代跡に「京都府中学」が誕生。また、同年に独逸学校が、明治4年3月に英学校が、さらに明治5年1月に仏学校が設立されています。

『管見』で説かれた女性教育も実現しました。明治5年に「新英学校及女紅場」を設立したのです。女紅場は、まず華士族の子女に英語や礼法、茶道、華道や、裁縫、機織などといった手芸を教育する施設として開設されます。

覚馬の招きで明治4年に京都に移り住んだ妹の八重も、ここで助教や舎監を務めました。その後、民間の女紅場が次々と作られ、一般の女子にも広く開放されます。 

さらに病院と医学校も設立されます。明治5年に仮病院が開設され、同年11月に療 病院と付属学校が作られました。さらに医師の試験制度や、薬の販売管理も進められています。明治7年には府立病院の本院と医学校(現在の府立医科大学)が建設されました。

これら明治初頭に京都で展開された近代化への様々な取り組みを概観してゆくと、その広がりと深みが驚くべきものであったことが、よくわかります。

覚馬は、薩長に敗れた会津藩士であるがゆえに、新政府に媚びず、新政府とは異なる方向で京都の町を再興させたいという想いを強く持っていました。

それが、東京遷都が行なわれて(ある意味では)見捨てられたとも言える京都の反中央意識とうまくマッチし、反骨の気風に富んだ独自のプランに結びついていったのです。逆に『管見』の思想を覚馬がここまで実現できたのは、京都にいたからこそだといえるのかもしれません。

 

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