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「敬遠中国」で再び日本は輝く〔2〕

石平(評論家/拓殖大学客員教授)

2013年11月15日 公開 2023年01月11日 更新

高度経済成長と中国市場は関係ない

 太平洋戦争の敗戦で日本は新しい時代に入った。史上初めて日本の国土は外国軍に占領されることとなったが、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結により、日本とアメリカを中心とする自由主義陣営諸国との講和が成立し、日本は再び国家としての独立を回復した。それと同時に日米安全保障条約も調印され、太平洋戦争で戦った日米両国は同盟国となった。

 このように、サンフランシスコ講和条約の成立と安保条約の締結をもって、日本は再び独立国家として、西側自由主義陣営を中心とした国際社会に復帰したのである。

 一方、中国では1949年に中国共産党が政権を取り、中華人民共和国を樹立した。そして新しい中国はソ連を中心とする共産主義陣営に仲間入りして、自由主義陣営と対立する側に立った。

 このような状況下で、サンフランシスコ会議で日本は中華人民共和国とは講和せず、互いを国として認めなかった。アメリカ、日本などの自由主義国家は、台湾に移った中華民国政府との国交を維持した。戦後の冷戦下で、日本と中国は対立する2つの陣営のそれぞれに属し、まったく別の世界に身を置いた。

 考えてみれば、満洲事変以来の「十五年戦争」とその敗戦を経て、日本は再び明治時代の国際的な立場に戻ったような状態である。中国大陸と距離を置きながら、米英を中心とする西側諸国と緊密な関係を築き、先進文明国の一員として国際社会のなかで生きていくことになったのだ。唯一異なったのは、明治時代の日本外交の基軸が日英同盟であったのに対し、いまや日米同盟がそれに取って代わった、ということだ。

 中国大陸との関係でいえば、1972年の国交正常化まで、日本と中華人民共和国とのあいだには外交関係もなければ正式の経済的・人的交流もなく、航空の直行便すらない状況が続いた。わずかな民間ルートを通じての、雀の涙ほどの貿易と人員の往来を除けば、両国間はほとんど隔離された状態にあったといってよいだろう。

 1972年に国交が回復されてからもしばらくのあいだ、中国国内は政治闘争と内乱に明け暮れていたから、日中間には大した交流がなかった。中国の国内情勢が安定化して、両国が政治・経済・文化など多方面での交流回復に乗り出したのは、おおむね1978年に日中平和友好条約が締結されてからのことである。

 いってみれば、1949年から1978年までの約30年間、日中両国はほとんど無交渉の状態が続いた。冷戦時代の産物であるとはいえ、日本にとってこの時期は明治時代のような「敬遠中国」の時代であった。

 しかし、まさにこの「敬遠中国」の時代において、日本は廃墟から立ち直り、奇跡の高度経済成長を成し遂げ、自らを世界屈指の経済大国・民主主義先進国に変貌させた。1950年からの30年間は、日本にとっての安定と繁栄の時代であった。

 高度成長を実現した最大の原動力は、日本人自身の力によるイノベーションであると思う。この時代、日本人は持ち前の創造精神と職人根性を思う存分発揮して技術革新に取り組み、新しい商品と新しい技術を次から次に開発した。世界で初めての電気炊飯器は日本で発明され、世界初めての胃カメラは日本で誕生し、液晶ディスプレイの実用化も日本人の手によって成し遂げられた。全世界で使われる腕時計の98%を占めるクォーツ腕時計も日本で生まれたものである。世界の技術者から「夢のカメラ」と呼ばれた、シャッターを押すだけで自動的にピントを合わせてくれるAFカメラは日本人が実現させた「夢」であり、日本人が初めて生み出した家庭用ビデオの規格「VHS」も世界中に広がった。

 このような技術革新を通して、日本企業は諸先進国と肩を並べる生産性を身に付け、世界への雄飛を果たした。それは輸出面でみればすぐにわかる。1954年の日本の輸出商品のトップは綿織物で、衣類・陶磁器・玩具などの軽工業品が主要輸出商品であったが、1965年には輸出品のトップは鉄鋼となり、ラジオ、自動車、カメラなども重要な輸出商品となった。1972年、日本製自動車の輸出台数は、ついに世界のトップとなった。

 ここに至るプロセスのなかで、日本の経済成長は中国大陸とはほとんど何の関係もなかった。中国の市場うんぬんというのは、当時の日本にとってなきもの同然であった。

 考えてみれば、戦後日本の経済成長と繁栄はまさに裸一貫からの出発であった。終戦直後には日本国内が廃墟になっただけでなく、原料や食糧の供給地であった植民地をすべて失い、「赤い夕日の満洲」のようなフロンティアは日本人の手の届かないところにあった。このような状況のなかで高度成長が達成されて日本が世界屈指の経済大国となったのは、戦後の日本人が「満洲」とは別のところでほんとうのフロンティアを見つけたからだ。それはすなわち、創造的熱意と職人精神、そして勤勉さや真面目さなどという日本人の「内なるフロンティア」である。

 日本のフロンティアは遠い大陸のどこかにあったわけではない。日本人自身の精神と腕の中にあったのだ。それこそが、日本人が戦後の奇跡的成功から学ぶべき最大の教訓ではないのか。

 

鳩山政権の失敗と安倍政権の成功に何を見るか

 最後に、多くの日本人にとって、もはや思い出したくない過去だが、21世紀のアジア主義とでもいうべき、鳩山内閣の「東アジア共同体構想」による外交は見事な失敗に終わった。中国との連携を強く意識した民主党政権の外交アプローチは皮肉にも、中国との関係悪化を招いただけでなく、長年の同盟国アメリカとの関係を危うくするものであった。「敬遠中国」という原則から外れたらどうなるか。鳩山外交は子孫に貴重な歴史の教訓を与えてくれたようである。

 一方、中国と「一定の距離」を置いた安倍政権の外交はいまのところ成功を収めている。現在、中国との政治関係がほぼ断絶しているなかで、安倍政権はむしろ内政・外交の両面においてうまくいっている。そのことは何を意味しているのか。いまだに中国首脳との会談を行なっていない安倍首相だが、国内で国民の支持を失うこともなく、むしろ長期政権の大宰相となる道が開かれている。

 顧みて考えれば、2006年の第一次安倍政権の際、当時の安倍首相は就任後、すぐさま北京へ飛び日中関係の改善に努めたが、政権はむしろ短命に終わっている。これらをいったいどう理解すべきなのか――。

 日本という国、あるいは日本人が中国という大国と将来、どう付き合っていくべきか。その答えはやはり歴史のなかにしかないことを知るべきである。

著者紹介

石 平(せき・へい)

評論家

1962年、中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。1988年来日、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。著書『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)が第23回山本七平賞を受賞。

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