《『Voice』2013年12月号 総力特集 驚愕の中韓近代史 より》
満洲事変で「アジア主義」が決定的なものに
アジア主義が机上の空論ではなく、政治の指針として国家の意思決定に大きな影響を及ぼすようになったのは、大正期から昭和初期にかけてである。まさにその時期から、明治期の「敬遠中国」から一転し、日本は徐々に中国大陸への関与を深めていった。指導者階層に属する多くの人びとはアジア主義の旗印を掲げて中国への関与強化を吹聴し、その政策を推進した。
松岡洋右はその代表的人物の1人である。国際連盟からの脱退や日独伊三国同盟の締結などで「大活躍」したこの政治家は、アジア主義の徹底した信奉者であり、いわゆる「東亜新秩序建設運動」の推進者でもあった。
もう1人、日本近代史のキーマンとなった軍人の石原莞爾もバリバリのアジア主義者である。石原を中心に組織された「東亜連盟協会」(のちに東亜連盟同志会と改称)は、その名称のとおり、日本と中国を含めた「東亜連盟」の結成を綱領に掲げていた。
石原が提唱する「東亜連盟」の結成は、彼自身の言葉でいえば、それは来るべき「世界最終戦」に備えるためのものだ。石原は、日本を中心とする東亜グループとアメリカを中心とする白人国家のあいだに世界の運命を決する最終決戦がいずれは起こると信じていた。だからこそ、東亜グループは団結して連盟しなければならない、と考えたのだ。
松岡洋右と石原莞爾、この2人のアジア主義者のもう1つの共通点といえば、二人はともに満洲と深い関わりをもっていたことだ。石原莞爾はいうまでもなく満洲を駐屯地とする関東軍所属の将校であり、満洲における「王道楽土」の建設が彼の最大の夢であった。一方、満鉄の理事・副総裁を歴任した松岡にとっても、満洲問題は生涯最大の関心事である。じつは彼こそが、「満蒙は日本の生命線」というキャッチフレーズの生みの親でもあった。
そして、石原莞爾は自らの信念に基づいて一世一代の大謀略を仕掛けて満洲事変を起こした。その結果、満洲は完全に関東軍の支配下に置かれるようになったが、それは日本が中国大陸に深入りする決定的な一歩を踏み出したことを意味している。それによってアジア主義は実質上の国策として動き出し、昭和初期の日本の進路を決定づけた。
一方の松岡も日本の進路を変えるのに大きな役割を果たした。満洲事変後、国際連盟がまとめた事件の調査書に日本に不利な内容があるとし、国際連盟への全権代表として派遣された松岡は連盟からの脱退を堂々と宣言した。日本はこれで西欧世界との完全な決裂を告げ、国際社会から孤立する道を自ら選んだ。その後の日本はそのまま、破滅の「十五年戦争」に突入していく羽目になった。考えてみれば、彼らの成し遂げた「業績」はじつに大きい。明治の人びとが汲々として築き上げた日本の国際的地位を一挙に台無しにして、大日本帝国を破滅の道へと追い込むその歴史的転換点をつくったのはまさに彼らと周辺の人びとであった。そして彼らがそんなことをやってしまった理由はすべて、アジア主義という彼ら自身の信念のためであり、「日本の生命線」だと見なした満洲奪取のためである。