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“自在”の境地で自分を模索せよ ― 夢を追いかけ続けるぼくの行き方

為末大(一般社団法人アスリートソサエティ代表理事)

2014年01月06日 公開 2024年12月16日 更新

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年1・2月号Vol.15[特集]成功とは何か より》

聞き手:渡邊祐介(本誌編集長)/構成:江森 孝/写真撮影:永井 浩

 

「世界に出る」ためにハードルへの転向を決意

 

――現役時代のことからお伺いします。陸上競技は勝ち負けがはっきりしていて、才能の有無が結果に直結するスポーツだと思うのですが、ご自身の才能についてはどのようにお考えでしたか。

 ぼくは姉の影響で9歳ぐらいから陸上を始めました。とにかく足が速かったのです。最初からもう、他人〈ひと〉とは全然違う。ですから、「どうすれば速く走れるんだろう」と考えるより、「どうしてぼくは速いんだろう」と考えていた印象があります。「これはかなりいいところまでいけるんじゃないか」という思いもありました。

――そんな為末さんでも、高校3年生のとき、ほんとうは出たかった100メートル走に監督の判断でエントリーしてもらえなかったそうですね。それは、才能がある人でも適性によって分類される転機が生じるということでしょうか。

 はい。陸上競技では、ほんとうにすごい才能の持ち主は100メートルに集まります。ただし、他のスポーツよりずっと端的に、体の成長が止まると記録の伸びどまりが起こるのです。周囲の目には努力不足と映るのですが、それは努力では抗いがたいもので、早熟だったぼくには18歳のときにそれが起こりました。

 そこでぼくは、自分がほんとうの一流ではないことに気づきました。そして、「だとしたら、身体的にトップではない人間でも勝てるものは何だろう」と考えるようになったのです。それから、自分の人生に対する考え方がより〝戦略的〟になっていったように思います。

――“戦略的”とおっしゃいましたが、努力だけを頼りに一番をめざす方法がある一方で、為末さんは加えてとにかくトップがとれる場所を探した、と。

 18歳で初めて経験した世界大会で、ぼくが勝てなかった日本人選手たちがみな予選落ちするのを目の当たりにして、日本での一番がひとつの島での一番でしかないことを痛感しました。そして、自分の目標が小さかったことに気づき、100メートルという世界に現実味を感じなくなっていったのです。

 そのときからは、ぼくにとっては「世界に出る」ことがとても重要になっていきました。これは、18歳まではなかった価値観です。そこでぼくは400メートルハードルに転向しました。その理由は何かと言うと、自分の適性のほかに、簡単に言うとハードルの世界がブルーオーシャン的、つまり競合相手の少ない未開拓の分野であることから、これなら世界で勝負できるかもしれないと考えたからです。

――400メートルハードルでは、走力とは別にどんな要素が大切なのでしょう。

 ジャンプが多いので“バネ”が必要です。これは身体的要素ですが、それとともにハードルに対する自分の距離感をつかむことがとても大切です。

 ハードル走というのは走り幅跳びに似ていて、踏み切る位置が前後にブレると、その分ハードルを跳ぶ角度が変わって、スピードのロスにつながります。そのため、風の向きや強さ、体調の善し悪しなどを感じながら、常に前後10センチくらいの誤差で踏み切る調整能力が必要です。

 その距離感が、時速30キロメートル以上で走りながら分かるかどうか。これは多分に戦略的な要素で、ハードル間の歩数も自分で決められるのです。ぼくの場合、10台あるハードルの間を、13歩を4回、14歩を2回、15歩を3回という歩数で走っていました。

――身長170センチの為末さんが、180センチを超える外国人選手に伍して活躍することができたのは、その戦略に長けていたからですか。

 そうかもしれません。ぼくは、100メートルからハードルに転向するときに、頭を使わないと生き残れないと考えました。「世界で勝負できなきゃ、自分がほんとうにやりたかった100メートルをやめた意味がない」と思い、とにかく考えて、それには最も合理的なやり方でいくしかないと思ったのです。

 外国人選手は、自分に合った歩数を選ぶことがあまり得意ではなく、いろいろな選手と話をしても、歩数についてぼくほど突き詰めて考えている選手はほとんどいませんでした。ただ、この距離感にしても、長年やっていてもうまくつかめない選手がいるところを見ると、足の速さやバネと同様に先天的なもので、どうもあとからは鍛えにくい気がします。

 

インパクトを与えることで人々の意識や世の中を変えたい

 

――松下幸之助は、「成功というのは、自分に与えられた天分を完全に生かしきることではないか」と考えていました。成功の定義はいろいろあろうかと思いますが、ご自身の現役時代をふり返ると、「成功すなわち才能を発揮すること」と言えるでしょうか。

 ぼくは松下幸之助さんの著書をたくさん読んでいるほうだと思うので分かるのですが、幸之助さんが考える成功とは、「与えられた才を自分の思惑でこねてしまわずに最大限に全うすること」だと思うのです。それはまさにそのとおりだと思いますし、そうやってとらえると、どんな人生も最後が肝心ということになります。

 陸上競技も、やはり「勝つことすなわち金メダルを獲ることが成功」というのが一般的な認識になる。その意味では、世界陸上選手権で3着どまりだったぼくの競技者としての人生は、失敗だったのだと思います。でも、そのこと自体に後悔はないし、身体能力に恵まれた人たちと海外で向き合って、よくあそこまでやったなという満足感はあります。

――たしかに、多くのアスリートの宿命として、いつかは限界が来てしまい、その先の人生のほうが長くなります。為末さんは、競技人生のあとの成功観についてどう考えていますか。

 まず、成功というものは、確かなもの、確定したものではないと思います。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

<掲載誌紹介>

2014年1・2月号Vol.15

1・2月号の特集は「成功とは何か」。
 “成功”といっても、人によって、あるいは状況によって、さまざまな考え方、とらえ方、形態があるといえよう。松下幸之助は生前、「成功するまで続けて成功」「事業としての成功とは別に、人間としての成功を追求する」「何ごとにおいても、三度つづけて成功したら、それはまことに危険」など、いろいろな“成功観”を持っていた。
 本特集では、練達の経営者や一流のアスリート、社会企業家などにそれぞれの成功観について語っていただいた。
 そのほか、アメリカのカリスマ経営コンサルタントへのインタビューや、最終回を迎えた人気連載も、ぜひお読みいただきたい。

著者紹介

為末 大(ためすえ・だい)

一般社団法人 アスリートソサエティ代表理事

1978年広島県生まれ。2001年のエドモントン世界選手権において、男子400mハードル日本人初の銅メダルを獲得。短距離・スプリント種目では五輪・世界陸上通じて「初のメダリスト」。2003年に大阪ガスを退社し、より厳しい環境を求め、「プロ陸上選手」となる。2005年ヘルシンキ世界選手権にて再び銅メダルを獲得。トラック種目で2つのメダル獲得は日本人初。シドニー、アテネ、北京オリンピックに出場。2012年現役引退を表明。一般社団法人アスリートソサエティ、「爲末大学」を通じてスポーツと社会、教育に関する活動を幅広く行なっている。著書多数。最新刊に『諦める力』(プレジデント社)、『負けを生かす技術』(朝日新聞出版)がある。
爲末大学 http://www.tamesue.jp/

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