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<輝く! 町工場の底力> 独自技術で元気!~広島の製造業

橋本久義(政策研究大学院大学名誉教授・客員教授)

2013年11月13日 公開 2022年11月10日 更新

<輝く! 町工場の底力> 独自技術で元気!~広島の製造業

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年11・12月号Vol.14より》

 

 広島には多彩な町工場が息づいている。古くは中国山地の“たたら製鉄”と、太田川の舟運を舞台として、やすり、砥石、縫針、毛筆などの地場産業が生まれた。

 明治以降は瀬戸内海全体が巨大な軍港として利用されるようになり、広島は軍都とも呼ばれた。呉には海軍工廠が建設され、工廠の職人が次々独立し(軍もそれを支援した)、技術を広めて、機械工業が育っていった。膨大な軍事物資の調達もあり、食品加工業、衣料産業等も発展していった。

 太平洋戦争では集中的な爆撃を受け、原爆で廃墟と化したが、戦後、自動車、重機械、造船などを中心に見事に復活した。

 

創業180年の大型鋳物製造業――大和重工
伝統産業“たたら製鉄”

 

 その広島の北部、可部の町に広島の歴史を体現した会社がある。大和〈だいわ〉重工だ。JR可部駅の目の前が大和重工本社の正門で、そこに巨大なモニュメントが飾られている。直径約3メートル、約3万杯分のご飯が炊けるという大釜だ。それを見つめているのが、木陰に立つ大和重工中興の祖、田中恭造の像である。

 創業は1831(天保2)年というから、現在まで180年以上の歴史を持つ。

 もともと中国山脈の島根県側と広島県側の双方で“たたら製鉄”が行われていたと、日本書紀にも書かれている。“たたら”は、本来は足ぶみ式のふいご(送風機)を意味する言葉だが、“砂鉄を原料に、木炭を熱源として鉄を精錬する作業”全体を“たたら製鉄”と呼び習わすようになった。土で築いた炉に砂鉄と大量の木炭を入れ、ふいごで送風しながら、3日3晩高温で砂鉄を溶解させて鉄をつくる。

 この技術によって、もっぱら日本刀、鎧の鋲などの武具がつくられていたのであるが、江戸時代になると庶民のための鍋・釜や、農業の生産性向上のために必要な農具・工具もつくられるようになった。

 江戸時代の鋳物業者は鋳物師〈いもじ〉と呼ばれ、勅許を得た格式の高い職業だった。大和重工は、初代瀬良嘉助が勅許を得て、1831(天保2)年に創業した。

 

経営の波を乗り越え成長

 明治維新後、日清・日露戦争の特需があり、3代目瀬良嘉助は事業拡大に走った。ところが日露戦争後の反動恐慌で経営環境は暗転。結局、破産に追い込まれた。

 事業再建に当たった弟の嘉一は、困難な中で技術を守り続けた。第一次世界大戦が勃発すると、一転して好景気が訪れる。個人経営から株式会社になったのもこのころだ(1920年)。

 だが、再び不況になって、2度目の経営危機を迎えた。息絶えそうになったとき、広島財界の斡旋で、当時運送業を営んでいた田中恭造が経営に当たることになった。

 このときから造船や工作機械などの大型産業機械用鋳物に特化したのだが、近くに呉海軍工廠があったこともあって、広島地区きっての有力軍需工場となった。

 第二次世界大戦後は、日本経済の高度成長に歩調を合わせ、順調に業績を拡大してきた。それというのも、同社は鋳造設備の近代化、新鋭工作機械の新設を強力に推進し、技術革新を先取りした付加価値の高い製品を送り出し、時代のニーズに応えてきたからだ。

 特に超大型の鋳物は他社の追随を許さない。たとえば船舶用エンジンは、ピストンの直径が1.5メートル。8気筒であると、鋳物は長さ10メートル、幅3.5メートル、高さ4メートル、重さ70トンにもなる。このくらい大きくなると、日本で鋳造できる工場はほとんどない。長さ10数メートルに達する工作機械用ベッド、超大型の射出成形用加圧板なども、同社の独壇場だ。

 現社長の田中保昭さんは大学卒業後、地元の銀行に勤めていたが、家業を継ぐということで大和重工に入社、わずか38歳で社長に就任した。奥さんは安定した銀行員のほうがいいのではないかと思ったという。なぜなら当時の大和重工は大赤字会社であったからだ。

 好況と不況、拡大と撤退、得意と失意、同社は幾度も山谷を乗り越えてきた。

 

新機軸を打ち出し社会に貢献

 田中社長は、就任直後から次々に新機軸を打ち出した。たとえば、経理を積極的に従業員に公開して、「これだけのボーナスをもらおうと思ったら、これだけの仕事をこなさなければならない」という、いわば目標管理、オープン管理を取り入れた。

 また、特に重点をおいて取り組んだのが、独自製品、鋳物製ホーロー浴槽の開発だ。もともとあった五衛門風呂の技術をベースに開発した。このような薄くて大きな鍋状の鋳物は欠陥が出やすく、つくれる会社は日本にはほとんどない。広島北部の吉田工場が製造基地だが、ここでは「Vプロセス」という技術を使っている。Vはバキューム(真空)で、真空で砂を固めて鋳物をつくる。砂を固めるための合成樹脂等が混ざっていないから、臭いもなく、砂も再生しやすい。面白い技術だ。

 大和重工のホーロー浴槽は、耐久性、美しさ、肌触りのよさなどすべての利点を兼ね備えた理想の浴槽といわれており、本物志向の住宅・ホテル用に好調に伸びている。陶器製と違って、さまざまな色づけが可能だ。

 また、五衛門風呂も最近好調だ。燃料は燃える物なら何でも使えるし、災害時には大人数用の炊き出し釜になる。学校などで保有しておけば、いざというとき風呂に、炊き出しにと、大きな力を発揮するだろう。

 東日本大震災のときは、大和重工で即座に応援部隊を編成して、炊き出し用の「移動かまど」を現地に持ち込んで救援活動を続け、大いに喜ばれた。

 最近はリーマンショック後の不況が長引き、なかなか苦しい状態が続いているが、今も絶え間なく研究開発を続けている。特に産業機械向け鋳物分野で独自の大型製品を開発し、海外展開もねらっている。

 人と技術をつないで生き永らえてきた大和重工。自社の波乱の歴史から新たな価値を創出する“温故創新”を図り、創業200年の節目に新たな事業を開花させようとしている。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

橋本久義

(はしもと・ひさよし)

政策研究大学院大学 名誉教授・客員教授

1945年福井県生まれ。東京大学工学部精密機械工学科卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。機械情報産業局鋳鍛造品課長等を経て、94年埼玉大学大学院政策科学研究科(現在の政策研究大学院大学)教授に就任、2011年より現職。通産省時代から「現場に近いところで行政を」をモットーに、現在まで四半世紀をかけて3,400以上の工場を訪問。著書に『「町工場」の底力』『中小企業が滅びれば日本経済も滅びる』(ともにPHP研究所)など。

 

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