おいしくて柔らかいパン――利益よりも、必要とする人に
2013年11月07日 公開 2024年12月16日 更新
3年保存の利く「パンの缶詰」の開発や、その宇宙食への採用、NGOと協力して進めている食糧難地域への援助「救缶鳥〈きゅうかんちょう〉プロジェクト」、糖尿病の人でも安心して食べられる「プチパン80」の販売など、国内外のさまざまな境遇の人々に、パンのおいしさを損なうことなく届けてきたパン・アキモトの秋元義彦社長。その高い志はどこから来るのか。栃木県のまちのパン屋さんで育った生い立ちから現在の活躍まで、歩んできた道を語っていただいた。
<構成:齋藤麻紀子/写真撮影:永井 浩>
※本稿は『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2013年11・12月号「特集 志を立てる」より一部抜粋・編集したものです。
墜落事故で障害を負った父 戦後に一からパン屋を築く
私の商売が社会貢献であるかのように言われることがありますが、もともとはまちのパン屋。パンづくりが大好きなのです。ほんとうに面白い。
でも、若いころは父の創業したパン屋を継ぐ気になれませんでした。機械化が進んでいなかった父の時代は、夜中に仕込みをし、また明け方に起きてパンづくりに取りかかる。長男の私には、親の後ろ姿があまり魅力的に見えなかったのです。
栃木の田舎を出るべく、東京の大学の経営学部に進学。パン屋を継がせようと、父は「経済学部か経営学部なら」と許可しました。でも、そう簡単に継ぐわけはありません(笑)。他の大学生と同じように就職活動をしていました。
しかし、とりわけ祖母から「あなたは長男なのだから」と説得をくり返され、しぶしぶ継ぐことにしたのです。たしかに、祖母がそれだけ説得するほど、父が苦労に苦労を重ねて続けてきたパン屋でした。
私の子どものころの夢はパイロット。戦前から戦中、大日本航空(当時)の無線通信士として海外を飛び回っていた父の影響です。ただ父は、墜落事故で、九死に一生を得たものの、障害を負ってしまった。戦争が終わると大日本航空は解体され、障害のこともあり、やむなく郷里の栃木に戻ったそうです。
生計を立てるため、最初はラジオの修理をしていました。無線通信士だったのでラジオについて詳しかったのでしょう。でも、「もっと生産的なことをしたい」と目をつけたのがパン屋でした。当時は食糧難で、日本全国「お腹ペコペコ」の時代。そのうえ海外に出ていた知人から「日本の食事は西欧化する」と示唆され、パン屋を開業したと聞いています。
東京のパン屋さんで1週間だけ見習いをして独立したという、とんでもない逸話の持ち主ですが、経営者としてはたゆまぬ努力をしました。時代とともに業態を変化・拡大させたのです。
最初は、「配給パン」の製造。戦後の貧しい時代、政府は各家庭に食糧を行き渡らせるべく、パンの配給引換券を配っていました。父は、その配給用のパンをつくり、生計を立てたのです。
次に乗り出したのが、学校給食。戦後アメリカ政府は、子どもの栄養改善になるとして、日本に小麦を供出し、給食でパンと脱脂粉乳を出していました。パン屋として、追い風をとらえたのです。
また、県内では相当早くから、インストア・ベーカリーに乗り出しました。スーパーが台頭してきた時代。そのテナントに入り、焼きたてのパンを販売したのです。
その後、1980年代のころ、移動販売にも力を入れました。北海道の「ロバパン」という会社をご存じですか。戦前昭和の創業期、ロバにパンを引かせて売り歩く巡回パン屋さんだったそうです。
戦後になると、日本各地で馬車、そして自動車によるパンの移動販売がみられるようになりました。当社も、農村部に「パン好き」がいると聞きつけ、自動車を改造し、移動販売を始めました。このように、「お客さまを待つのではなく、お客さまのもとに行く」という発想を打ち出したのも、父だったのです。